033伝染病棟外観

建築家・松村正恒研究と日土小学校の保存再生をめぐる個人的小史  [3]1997年:開け始めた視界と曲田清維先生との出会い

花田佳明(神戸芸術工科大学教授)

 こうやって古いことを思い出していると、自分の歩みののろさに呆れてくる。1994年に初めて松村正恒の建物を見てからすでに3年目に入っていた。
 1997年4月、私は神戸芸術工科大学へ転出した。それまでも非常勤講師として設計の実習や講義を担当してはいたが、4年制大学の専任教員という仕事は初めてであり、試行錯誤の毎日だった。しかし、吉武泰水学長のもと鈴木成文先生らが作り出した新しい大学は自由で居心地がよく、また、自分が研究し始めた時代を生きた先行世代に直に触れるという得難い機会であり、いろいろな発見があった。
 したがって前回書いた『再読/日本のモダンアーキテクチャー』の「松村正恒の残したもの」という文章は、新しい環境でまとめたものである。そして、前年の愛媛再訪で見た資料のことはそこに書いたとはいえ存在を確認しただけで終わっており、それぞれのコピーを手に入れ、この新しい場所でさらに研究を進めていかなくてはと思っていた。
 ところで初年度からゼミ生も配属されたのだが、そのひとりが、松村正恒が八幡浜市役所時代に設計した江戸岡小学校の卒業生だった。着任前のゼミ説明で松村研究をしていると自己紹介をし、いくつかの建物名をあげたところ、「江戸岡小学校ってそんなに有名なんですか。私、そこの卒業生です」と声をかけられたのである。その偶然に驚きつつ、よい機会だと思い、夏休みにこの学生を連れて八幡浜市を再び訪れることにした。
                 *
 8月17日(日)の朝、同行を希望したもうひとりのゼミ生と合わせて3人、八幡浜2泊、松山1泊、という予定で神戸を出た。そして八幡浜に着いたその日の夜、面白い出来事があった。

 連載1回目に書いたように、私は愛媛県の山の中の小さな町で生まれ、小学校3年生までをそこで過ごしたが、その頃に可愛がってもらった少し年上の姉妹が近所にいた。私の父親の同僚の娘さんで、わが家が愛媛県を出てからも親どうしは連絡を取り合っており、その後二人が八幡浜市で看護婦になったと聞いていた。しかも勤務先は市民病院。ということは、松村が市役所時代の最後の時期に設計したコンクリート造の市立八幡浜総合病院だと思い、何年かぶりに連絡を取り妹さんの方と会うことにした。
 夜の8時頃だっただろう。病院の暗い廊下でゼミ生と一緒に仕事を終えた彼女を待っていた。すると向こうから人影が近づいてきて、私は懐かしい顔をすぐに思い出した。しかし先方がこちらに向かって最初に発した言葉は、私の名前ではなく、八幡浜出身のゼミ生に対する「あれえ、〇〇ちゃんじゃない!どうしたの」というものだった。
 彼女の娘さんとゼミ生が、地元の高校の同級生だったのである。何とも奇妙な気分だった。時間のチューブがぐにゃりと曲がり、別の場所につながったような感覚とでもいえばよいか。しかもそのどこかに過去の自分もいる。日土小学校に初めて向かった車の中での胸騒ぎを思い出した。

001総合病院外観

市立八幡浜総合病院正面。竣工は1960年。すでに建て替えられた

002総合病院ガラス面

階段部分の外観

003総合病院廊下

廊下

 その後も八幡浜を訪れた際にときどき会い、こちらのやっていることを説明した。松村はこの病院の看護婦寮も設計したので(「市立八幡浜総合病院看護婦寄宿舎」として『新建築』1956年5月号に掲載)、知っているかと尋ねたら、「独身の頃はそこに住んでたのよ」と答えられ、このときも不思議な気持ちがした。その後、彼女には市立八幡浜総合病院竣工当時のパンフレットを手に入れてもらい、そこに掲載された配置図が松村の病院関連施設の仕事の全体像を把握する助けになった。
 実はこういうふうな出来事がこの後にも幾度かあり、子供の頃に育った場所との不思議な縁を感じながら松村研究は進んでいった。

004看護婦宿舎外観

市立八幡浜総合病院看護婦寄宿舎外観(『新建築』1956年5月号)

005看護婦宿舎平面図

平面図(『新建築』1956年5月号)

006看護婦宿舎ホール

ホール(松村家旧蔵・日本建築学会蔵)

007看護婦宿舎居室

居室(4人部屋)(松村家旧蔵・日本建築学会蔵)

 さてこの旅の一番の収穫は、愛媛大学教育学部教授(現在名誉教授)の曲田清維先生と知り合えたことである。住居計画や住環境教育がご専門で、大学に建築系学科のない愛媛県において、数少ない建築系の大学人だった。当時の手帳をみると、前回書いた青木光利さんから事前に曲田先生をご紹介いただき、私から曲田先生に連絡を入れ、八幡浜で会う日程調整などを行なったようだ。青木さんからの提案だったか、こちらからのお願いだったかは忘れてしまった。
 8月18日10時半に、日土小学校で曲田先生と落ち合った。愛媛大学と大分大学からの数人の見学者も一緒だった。さっそく校長先生にお話を伺ったが、建て替えを希望するとの意見を聞かされ驚いた。そういう立場の方と会うのは初めてのことであり、どう反応してよいかわからず緊張した。また、保存問題という高いハードルがあることを再認識し、曲田先生ともいろいろな話をした。
 しかし、正直言ってその難しさに対する実感は乏しく、久しぶりに見る日土小学校の方へ目は向いていた。夏の強い陽射しのもとで見るのは初めてで、これまでとは違う力強い美しさがあり、たくさんの写真を撮影した。そのうち、改修工事で変化した部分を中心に何枚か載せておく。

008日土小外観

日土小学校外観

009日土小職員室

中校舎の職員室の廊下側の壁。改修工事でガラススクリーンに変更した

010日土小便所

中校舎と東校舎の間にある便所。改修工事で作り直した

011日土小渡り廊下

中校舎と東校舎を結ぶ2階廊下のピロティ。柱は65mmのアングルという繊細なデザイン。法的な必要から改修工事で作り直した

012日土小渡り廊下2

奥に便所が見える

013日土小昇降口

東校舎の昇降口。後付けの手洗いは撤去し、その上部の屋根のトップライトは復活させた

014日土小図書室

図書室。改修前はこのような状態で、生徒会室として使われていた

 次に皆で、長谷小学校(1953年完成)を訪れた。複式学級が前提の小さな学校で、松村が木造平屋の校舎を設計した。宇和海を見下ろす標高300mほどの山の上にあり、周囲にある蜜柑農家の子弟のための学校だった。たいへん細い道を登るので、曲田先生の車の先導のもと、こわごわ車を運転した。
 日土小学校とは全く違う雰囲気ながら、2つの教室の間仕切りを大きな引き戸にして一体化できるようにしたり、トップサイドライトから光を入れたり、各所に工夫があった。先生も毎日通勤するわけにはいかなかったのだろう、宇和海が見える位置に台所のある宿直室があった。松村はこの現場までどうやって通ったのだろうかと、ひとりの公務員として奮闘する彼の日常を思ったりもした。

015長谷小への道

長谷小学校への道。遠くに宇和海が見える

016長谷小入り口

校庭への入り口

017長谷小外観

長谷小学校外観

018長谷小教室

教室。トップサイドライトが見える

019長谷小教室2

教室。正面の黄色い壁は3枚の引き戸で、左側の外部へすべて引き出せる

020長谷小戸袋

教室間の間仕切りの引き戸を納める仕掛け

021長谷小台所

宿直室の台所

 さらに、八幡浜駅近くの江戸岡小学校(1953年・55年完成)を再訪した。日土小学校よりも規模が大きく、堂々とした雰囲気にあらためて驚き、夕日を浴びた美しい姿をたくさんの写真におさめた。この建物も今はない。

022江戸岡小外観

江戸岡小学校外観

023江戸岡小昇降口

昇降口

024江戸岡小階段

階段

025江戸岡小廊下

廊下

026江戸岡小教室

教室

027江戸岡小会議室

会議室

028江戸岡小特別教室棟

特別教室棟

029江戸岡小特別教室等階段

特別教室棟階段

030江戸岡小特別教室等階段

特別教室棟階段

031江戸岡小特別教室等階段

特別教室棟階段

032江戸岡小特別教室等階段

特別教室棟階段

 8月19日には八幡浜市役所を再訪し、かつて松村の部下として設計に従事した柳原亨さんと、建設課に勤める清水行雄さんにお目にかかった。そして、市役所に保存されている松村が設計した全ての建物の設計原図を借り、松山の専門業者に持ち込んで複写する許可をとった。いうまでもなく、これがその後の分析作業の基礎資料となった。
 また、八幡浜総合病院の伝染病棟(1954年完成)を見せていただいた。病院関連の施設は残っていますかと質問をしたら、どちらかが「伝染病棟ならまだあったかもしれませんなあ」とおっしゃり、のんびりした言葉に驚きつつ、見にいったら本当にまだ建っていたのである。
 しかも現役だった。後で調べると、この施設の管理者は病院ではなく地域に作られた組合であり、入院患者はいなくても施設としてはまだ生きているということがわかった。この上空を通るバイパス工事のため2001年に解体されたので、松村が設計した病院関連施設を見る貴重な機会だった。
 特別の下調べもしていなかったため、とにかく駆けずり回って写真を撮った。ゆったりしたスロープ、紡錘形の柱や手摺子、上から注ぐ淡い光など、実に印象的だった。伝染病患者の隔離施設という特殊な用途だからこそというべきか、日土小学校とは違う内向的な空間で、夢の中にいるような気持ちになったことをよく覚えている。
 驚いたのは、妻側の外壁が淡い紅色に塗られていたことである。清水さんによると当初は建物全体がそういう色だったとのことで、この言葉から、日土小学校は白い、松村建築は白い、インターナショナルスタイルだから白いという先入観が揺さぶられた。しかし、日土小学校の実際の多彩な色使いを想像するにはいたらず、それがわかったのは改修工事が始まってからである。

033伝染病棟外観

伝染病棟外観

034伝染病棟の妻側の壁が淡紅色

淡紅色の妻側の壁

035伝染病棟入り口

入り口

036伝染病棟スロープ

スロープ

037伝染病棟スロープ

スロープ

038伝染病棟スロープ

スロープ

039伝染病棟廊下

病室前の廊下

040伝染病棟病室

病室

041伝染病棟柳原・清水

左:柳原さん、右:清水さん

 八幡浜市中心部に、松村が設計した旧図書館が現存していることも教わり、見に行った。片山町の八幡神社の足元に行ってみると、木造2階建ての可愛い建物があった。近くに新しい図書館ができていて、古い方のこの図書館は、放課後に子供たちが過ごす施設として使われていた。
 1階は物置と化していた。柔らかなデザインの階段で2階にあがると、木製枠の大きなガラススクリーンがあり、その奥がもとの閲覧室だった。書架はすでになく、一部に畳が敷かれ子供が寝転がっていた。
 実はこの建物は、1951年に市内の別の場所(新川沿いの中心部)に建設され、その後、1954年に現在の場所の近くに平面形を左右反転させて移築され、さらに1971年に現在の場所へ再移転されたのであるが、そういうことがわかるのは、後に2種類の設計図が残っていることに気がついてからである。また、建築基準法の改正にともない、防火上の理由で外壁がモルタル・ペンキ塗りになった最初の松村担当物件で、日土小学校などの松村流デザインの出発点といえることも、その後に気がついたことである。
 ともかくこのときは、学校や病院以外のビルディングタイプにも日土小学校的なデザインが適用されていることに驚いたことをよく覚えている。松村は市の職員として多くの建物を設計していたのだから、同じ手法を使うのは当然のことだが、現在の目には特別なものに見える木造モダニズム建築が、ひとつの町の中に当たり前のこととして点在する風景を想像して感激したのである。

042図書館外観

旧図書館正面側外観

043図書館外観

裏側外観

044図書館階段

階段

045図書館階段から

階段から旧閲覧室を見る

046図書館閲覧室から階段

旧閲覧室から階段室を見る

047図書館旧閲覧室

旧閲覧室

048図書館旧閲覧室

旧閲覧室から道路側を見る

049図書館バルコニー

道路側のバルコニー

050図書館出窓部分

裏側の出窓部分

 また、川之内小学校にもこのとき初めて行ったと思う。松村の設計で1950年に完成し、彼が設計し現存する最も古い建物である。こちらは懐かしの木造校舎という雰囲気だった。しかし、トンネルのような通路を通って裏側に抜けると様相は一変し、複雑な構成の吹きさらしの昇降口と水平連続窓の美しさに驚いた。しかしそれらの意味、つまり、日土小学校で完成した教室への両面採光の初期の試みであることがわかったのは後のことである。

051川之内小外観

川之内小外観

052川之内入り口

昇降口への入り口

053川之内昇降口

昇降口

054川之内昇降口

昇降口。採光用のスリット窓がわかる

055川之内裏側外観

裏側外観

056川之内階段

階段室

057川之内裏2階廊下

2階廊下

058川之内便所

便所

 丸便所が印象的だった神山小学校にも行ってみたが、1996年に建て替えられていた。建物は放っておくと消えてしまうのだと痛感した。

059神山小建て替え

建て替えられた神山小学校

 8月20日には松山の松村正恒邸を、青木光利さん、曲田先生、それに私と学生2名で再訪した。そして妙子夫人の許可を得て、松村家に残る独立後の図面や資料などを確認した。青木さんと曲田先生は妙子夫人とは顔なじみであるが私はまだ二度目で、家探しともいえる資料探索の要領などがわからず、戸惑ったことを思い出す。しかし曲田先生と相談し、以前発見した勉強ノートなどをお借りしてコピーを取ることなどの手配をした。
                 *
 こうして4日間の旅が終わった。前回書いた青木光利さんを通した学習が独立後の松村正恒に関するものだったとすれば、今回は八幡浜市役所での仕事の広がりを実感する機会となり、その全体像を丁寧に掘り起こさなくてはいけないということがよくわかった。
 この旅で、曲田先生と松村建築の保存活動については何をどこまで話したのか覚えていない。しかしこのときから、信頼感に満ちたかじ取り役としての曲田先生との、日土小学校の保存再生活動と松村正恒研究を介した今に続く長いおつき合いが始まったのである。