櫛森第三中学校にて(小説#3)
「忘れるところだったが……」という切り出しが福本旺助の口癖なのは櫛森第三中学校では有名で、この口真似は生徒間で定着したおふざけとなっている。福本自身、真似されていることは知っているはずだが、直す気がないのか、直せないのか。二学期に入りしばらくした今も、彼の担任クラス一年二組の生徒は、何度もこのフレーズを聞かされている。
「せんせー、これ淡島通信じゃん! 忘れたら淡島先生に怒られるよー」
生徒の軽口と、それを受けた幾人かの笑い声。
下校前のホームルーム。福本がお馴染みの「忘れるところだったが」を言いながら配り始めたのは、現代文教師から預かっていた文学史の課題プリントだ。手書きのイラストまで挿入する熱の入れようを茶化し、生徒たちは『淡島通信』と勝手に呼んでいる。
軽口には反応せず、福本は淡々とプリントを配る動作を続けている。生徒のこういったからかいに乗ってやるタイプでは全くないのだ。それでもこの痩せぎすの四十男が生徒にそこそこ好意的に受け入れられているのは、彼の数学の授業がとにかく分かりやすい為に他ならない。
「あー、それからな、忘れるところだったが……」
空になった両手をはたきながら、福本は教壇に戻った。一日の授業からの解放感が漂う教室。行儀よく席についてはいるが、わいわいと談笑を続ける生徒たちの頭上辺りを見ながら、福本は口を開いた。
「このなかに櫛森西小学校から来た生徒も多いと思うが……」
ふざけて手を挙げようとする生徒を、お前は違うだろと別の生徒がはたく。
「松実渉平の意識が戻ったらしい。」
…………!
水をうったように、教室内は静まり返った。横や後ろを向いていた生徒も、口を開けて福本の顔を見たまま固まっている。一気に注目を集めた福本は、無表情を崩さず淡々と続けた。
「まだ総合病院に入院しているが、会話もしっかり出来るそうだ。面会してもいいらしい。見舞いに行ってやりなさい。」
担任教師の言葉からややあって、「松実君が……」「良かった……」と女子の低い歓声があがりはじめた。口元を押さえたり、隣同士で手を取り合ったり。男子も息をついたり、お互い顔を見合わせたりしている。
そんななか、低い呟くような声がした。
「呪い、失敗か……」
誰が言ったのか。
低いのに、その声は教室内にいやによく通った。さざめきは冷えるように引き、再び教室は静まり返る。
やがて、幾人かの生徒たちがチラチラと、一人の生徒の方を伺い始めた。あからさまには顔を向けず、目だけをこっそり寄越す。そんな視線の先にいるのは、窓際の後ろの席に座る、一人の女子生徒。
肩の少し下まである真っ直ぐな髪。座ったままでも小柄と見てとれる華奢な体ーー久坂しずきは、机に置いた軽く組んだ手を見つめ、視線を上げずにじっとしていた。
「……」
福本は、その一連の流れを見ているのか、いないのか。無表情のまま、しばらく間を置いていたが。
「あと、忘れるところだったが……」
そう言いながら、淡々と明日の時間割変更の連絡を始めるのだった。
※ ※ ※
「居づらい……」
久坂しずきは、階段に腰かけながら溜め息をついた。校舎三階と屋上をつなぐ階段。『屋上に集まって青春を謳歌するなんてフィクションのなかだけ』と誰かが言っていたが、確かにその通り。通常、屋上に続く扉は施錠されている。つまり、行き止まりになっているこの階段には、誰もやってこないはずで。
踊り場を上がった先に身を隠しながら制服のプリーツスカートを整え、冷たい壁にもたれながら目を閉じた。
あの後、福本は静まり返った教室のなか、いつも通りホームルームを終わらせ、さっさと教室を出ていった。生徒たちは解放され、再び賑やかさが戻ってくる。松実渉平の回復を喜ぶ面々が各々集まり、見舞いの相談を始めていたが。
しずきがすっと立ち上がると、何人かがピクリと反応した。鞄を手に取り、出口に向かって歩きだすと、周りはそそくさと離れ、自然と道が出来る。
……自分の挙動に、クラスメイト達の意識が集中しているのを感じながら、しずきはゆっくりとその道を通り、教室を出たのだった。
そのまま帰宅できれば良かったのだが、それが出来ない事情がしずきにはあった。放課後、職員室に来いと、福本から呼び出しを受けているのだ。指定された時刻は五時。福本が掃除の点検をする時間が挟まっている為、三十分ほど時間が空いていた。
あの教室の空気のなか、三十分も留まれる程鈍感ではない。だからといって教室を出たものの、校舎内、どこにいても二組の生徒の視線がある気がして、考えた末、屋上前の階段で時間を潰すことにしたのだった。
福本先生も、よりによってこんな日に呼び出しをしなくてもいいのに。
「多分、このことだよね……」
右手に持った、しわくちゃになった藁半紙。見出しには『授業参観の日程について』と印字されている。都合がつきやすいようにと、ご丁寧に二日用意された日程の、どちらに参加するか、丸で囲って回答して、提出するようになっているのだが。「参加しない」という選択肢が無かった為、しずきは口頭で福本に不参加を伝えていたのだった。
「来るわけないじゃん、母さんが……」
顔を膝に埋もれさせ、職員室で交わされるだろう会話のシミュレーションをする。
ーー久坂、不参加と聞いたが……どうしても都合つかないのか? 一ヶ月も先だぞ。
ーー母が忙しいんです。家にもほとんどいないのに、授業参観なんて無理です。
ーーお母さん以外に、来れそうな人はいないのか?
ーーうち、父親がいないんです。名前も知りません。あの人、結婚しないで一人で子ども産んだんです。堅物って感じなのに、意外と思いきったことしますよね。祖父は五年前に死にました。祖母は……死んだのかな? 分からないけど、とにかくいません。あ、叔父がいますよ、ほとんど会ったことないけど。呼んでみます?
想像のなかの自分はよく喋る。実際には、この半分も説明出来ないだろうけど。
ーーお母さんに、授業参観のことはちゃんと言ったのか? 言ったけど、どうしても都合がつかなかったんだな?
ーー…………。親、来ないとダメですか? 私は別にいいですよ、気にしません。
はぁ、と想像のなかで福本はため息をつく。そのため息が、二重に重なって聞こえた。女性のため息。いつの間にか想像はぼんやりと輪郭を失い、再び像を結ぶと、場面は櫛森西小学校の職員室に変わっている。目の前には、当時担任だった若い女性教師。
ーー久坂さん、あなたは成績もとても優秀だし、真面目ないい生徒だわ。でも、もう少しお友達と遊んでみたらいいと思うの。
ーー……。
そのお友達がいないんです、としずきは思ったが、口にはせずに黙りこくっていた。これは過去の記憶だ。想像と違い、勝手に饒舌にはなれない。
ーーあなたがどんな子か分からないから、クラスの皆も、変な噂を信じちゃうのよ。
ーー……。
じゃあ、もし、私が皆とよく遊ぶ子だったら、皆気にしないでいてくれたのか。私といるとき、変な声が聞こえたり、足を何かに触られたり、教室に閉じ込められたりするような、不気味なことが続いても。
……本当に?
ねえ、先生。私、昔は皆と普通に遊んでたよ。変なことが続いて、離れて行ったのは皆の方じゃないの? 噂が広まったのと、私が一人になったの、どっちが先?
これはいつだっただろう。そうだ、小学六年の三学期に起きた、松実渉平の事故。この事故をきっかけに、卒業間近にして激化したしずきへの無視や陰口を、担任も看過できなかったのか、しずき一人、職員室に呼び出しを受けたときの会話だ。
この時の助言は的はずれに思えたが、悪い教師ではなかった。尾ひれはひれがついて蔓延していた噂は、この教師が一喝してくれたお陰で、だいぶ鳴りをひそめたのだから。
ーー皆さんは、もうすぐ中学生になります。それなのに、呪いなんて、あなたたち。いつまでそんな幼稚なものを信じるの。そんな話は、今後一切しないように!
「呪いなんて、そんな幼稚な話がある?」
大きな声に、はっと顔を上げた。自分が隠れている階段の真下の廊下に、いつの間にか誰かが集まって話をしている。
「中学生にもなって、皆そんなもの信じてるの?」
「でも、エリナぁ」
最初の語気の強い声に、おもねるような鼻にかかった声が続いた。
「西小の子の間では有名らしいよ。松実君の
事故の話」
そうそう、と他のニ、三人が同調する。会話からして、玉森小学校出身の生徒だろう。ここ、櫛森第三中学校には、櫛森西小学校と玉森小学校、二つの小学校の卒業生が集められている。
誰だろう、としずきは息をひそめながら考える。他生徒と普段ほとんど口をきかないうえに、櫛森西から来たしずきにとって、玉森の生徒はまだ馴染みが薄く、声だけで判別するのは難しい。
エリナと呼ばれているのは、多分、菊池絵莉那。ベリーショートの髪型と、よく通る声が普段から印象的で、しずきもすぐ思い当たった。でも、他の生徒はよく分からない。
「事故の話って……松実君がふざけて久坂さんの帽子をはたき落とした後に、たまたま車に当たったっていうだけじゃん。」
「それだけじゃないって、エリナ、知らないの?」
ヒソヒソと声を潜めて、その女子は続ける。
「はたき落とされた帽子が、風もないのにスイーッて道路の方に飛んでいったんだって。それを追いかけた松実君が道路に飛び出して、事故にあったの」
「しかも、久坂さんの帽子、事故のあと、久坂さんのところにコロコロ戻ってきてたって。何人も、見た人がいるんだよ」
「事故が目の前であっても、久坂さん、顔色一つ変えなかったって。松実君と一緒にいた男の子達が先生呼んで、だから救急車が来たから良かったけど、その子達がいなかったら、どうなってたと思う?」
周りの女子達も、口々に話を捕捉していく。
概ね、間違ってないけど……。階段の上で息を詰めながらしずきは唇を噛んだ。目の前で松実渉平が宙を飛んだとき。あのときは全身が痺れるような衝撃を受けて、そのまま立ち尽くしていた。端からみて、それが、顔色を変えなかったように見えたのだろうか。
「ただの噂でしょ」
「その事故だけじゃないんだって」
納得しようとしない友人を説き伏せようと、女子達は口々に「久坂しずき」についての噂話を話そうとする。
「とにかくあの子といると、気持ち悪いことばっかり起きるって。あたし、聞いたんだけど……」
そこで何かに気づいたように、彼女達は一様に口をつぐんだ。一瞬、しずきは、自分が聞いていることに気づかれたかと身を縮めたが、どうやら違うようだ。
ヤバいとか早くとか、お互いをせかす声と、カチャカチャと何かを片付ける音。パチンとプラスチックケースを閉じる音に思い当たる。パウダーケースだ。こっそり持ち込んだコスメアイテムを肴に噂話で盛り上がっていた現場に、教師の声が近づいてくる。
「もう来ちゃうって! とりあえず全部持って、階段の上に隠れよう!」
今度はしずきの方がエッと飛び上がった。
こっちに来る?
……確実に見つかる!
気まずいなんてものじゃない、どんな顔すればいいのよ。やぁ、全部聞いてましたよ、とでも言う? そもそもこんな誰もいない所で、一人何してるのって、また気味悪がられるに決まってる、どうしよう、どうしよう。
下からはバタバタと階段を駆け上がってくる足音。鞄を掴み、しずきはなす術もなく行き止まりと分かっている階段を上がった。施錠されていると分かっている屋上の扉を、藁を掴む思いで押す。
ギィと軋む音。
漏れでる赤い光。
……開いた。
驚く余裕もなかった。しずきは、ほっとして僅かに開いたその隙間に身を滑り込ませたのだった。
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