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消える月(小説#2)

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「あら?」

    久坂志穂子は思わず声をあげた。
    秋の風を入れる為、窓を開けた先に見えたのは、塗ったように何もない黒い夜空。
    ここに来る途中、遠くの電波塔にかかる白い月を見たはずだが。

    記憶違いのはずはない。
    そのひっそりとした白色に、五年前、棺を閉じる前に目に入った父の死に顔を思い出してしまい、そんなものをわざわざ思い出した自分に苛立つ気持ちを、今の今まで処理できずにいたのだから。

    方向が違う?    でも、街の明かりに照らされて、かすかにあの電波塔の小さなシルエットが見える。急に雲が出たのかしら?    それにしても、随分真っ暗な空だこと……。

「あれぇ、姉さん。ようやく来たのかい」

    訝しむ思考は、背後から聞こえる気の抜けた声に中断される。
    振り替えると、大きな身長を屈ませて鴨居をくぐる、弟の姿があった。
    久坂卓郎。
    背の高さは、志穂子と姉弟の繋がりを感じさせるが、痩せ形で目付きのキツい姉とは対照的に、やや太めの体型と丸みを帯びた輪郭の弟は、人の良さそうな印象を与える。

「スーツのままじゃん。ひょっとして今まで仕事だったのか?」

「そうよ。今日のことがあるから、早くあがらせてもらったの」

    マジか、もう九時だぜ、と騒ぐ寝癖頭とジャージの上下の弟を見て、志穂子は溜め息をつく。いちいち訊きはしないが、この弟は、相変わらず定職についてはいないのだろう。

「しかし懐かしいよ、この家。親父が死んでもう五年だっけ?    だったら五年ぶりか。オレ、ちょっと早く来てくつろいでたんだけどさ、電気つくか心配だったよ。家主が死んでも、電気って来るんだな」

    早く来て、くつろぐ?
    この家で?

     私はとてもそんな気にはなれない、と、弟の鈍感さにまた苛立ちをつのらせながら、志穂子は返事もせずに座卓の前に腰をおろした。慣れない畳の感触は、まだ夏の湿り気を残している気がして不快だったが、早々に終わらせるつもりなので、座布団まで出したくはない。

「しっかし、いい加減整理しねぇとなぁ、家具とかそのままじゃん。親父の遺稿とか、探したらまだ出てくるんじゃねぇか?」

    はいよ、とペットボトルのお茶を二つ座卓に置きながら、卓郎もあぐらをかく。

「出版社の人が目ぼしいものは持っていったわ。どのみち、もう落ち目の作家だったもの。それほど価値はないみたい」

「 え、そうなのかよ。『稀代の幻想怪奇作家・久坂報心!』てよ。昔はなかなか騒がれたけどな」

「世の中そんなものよ。だいたい、あんなの好んで読む人の気がしれない。ちょっと珍しいからって、一時的に騒がれただけなのよ」

「相変わらず親父に厳しいな、姉ちゃんは。死んだ後くらい、優しいこと言ってやれよ」

    ケラケラ笑いながら一応はたしなめてくる弟の声を聞きながら、志穂子は正座した膝の上に目線を落とし、蓋も開けずにペットボトルをもてあそんでいる。

「そういえば、しずきちゃんはどうしたの?    もう夜遅いぜ」

「……夕食代は渡してある。先に寝てるように言ってるから大丈夫よ」

    おいおい、と卓郎は声をあげる。

「しずきちゃん、今いくつだっけ」

「今年の春、中学に入ったわ」

「中一か!    いいねぇ。ん?    いいって何がだ?」

    自分に自分で返して、卓郎は一人でワハハと笑った。

「でも、いいのかよ?    仕事忙しいのも分かるけど、ほったらかしにしてさぁ。一人親なんだから、もっと構ってやれよ」

  パキ……、と志穂子が両手で包むペットボトルが音をたてた。

「そうそう、この家の向かいの、香水のキツいばばぁいるじゃん、西澤って言ったっけ?    オレ今日、この家の前で捕まってさ、話がすげぇ長ぇの!    で、アイツが言ってくるんだよ、しずきちゃん、カワイソウだわーって!    なんでもあいつが言うにはよ、……ま、その、なんだ……うるせえよなぁ……他人が口出すなって、なぁ?」

    姉の顔色にようやく気づいたのか、調子よく捲し立てていた卓郎は突然しどろもどろになり、

「……で、この家、壊しちまうのか?」

    全く違う着地を無理やりさせて、頭をかいた。

「立ち退きね。市から連絡があったのよ。大きな道を作るんですって」

「ふうん」

    別にいいけどよ、と卓郎は両手を後ろについて天井を仰いだ。
    黄ばんだ紐がたらんと垂れてくる先で、四角い木の枠でかこまれた照明が、頼りない光をぼんやり投げかけている。

「でかいだけのこんな古い家、置いといても仕方ないもんなぁ。親父の家っていっても、俺たちは全く住んでねえじゃん。思い入れも特にねぇよ。」

「立ち退きは了承、ということでいいのね」

「異議なーし」

    手をひらひらさせて、弟は笑う。まあ、反対されるとは最初から思ってない。本題はここから。志穂子は、コトン、とペットボトルを座卓に置いた。

「……というわけで、この家に残ってる家財や書類全般の片付け、一緒にしてもらうわよ」

「げぇ?」

    卓郎はのけぞる。

「とりあえず今日、帰る前に一通り家のなかを確認しましょう」

    マジかー、と額に手をやり首を振っている弟にまた溜め息をついた。
    大袈裟に騒いでくれるじゃないの。フリーターがどれだけ忙しいか知らないけれど、連日残業のこちらより、時間がないわけがない。わざわざ父の家に呼び出したのは正解だった。電話で頼むだけだと、卓郎は何かと理由をつけ先延ばしにしかねない。ここで一緒に家の状態を見る機会をつくっておけば、少しは前向きに協力するはずだ。

    とりあえず話さなければと思っていたことを全て話し終えて、ふと、気になった。

「……西澤の奥さん、何か言っていたの?」

「え?    さっきの話?    いやぁ、なんでもないんだ」

    卓郎の言う年配の女性のことは、志穂子も知っていた。父が倒れた日、病院での手続きが済んで、着替えを取りに行ってやろうと娘連れで父の家に戻ったところを、好奇心丸出しの様子で呼び止めてきたことがある。適当に切り上げようとしても強引に話を続けるしつこさは経験済みだった。その頃、報心は病院で息を引き取っていたから、結局着替えは必要なかったのだが。

    あの女性が、しずきの話を?    接点があるようにも思えないけど……。

    しかし、志穂子の前で娘の話は地雷だと判断したのか、卓郎の口は重い。気を遣われていることが余計に気に障った。

「言いなさいよ。しずきがどうかしたの?」

「気にすんなって。あんな婆さん、いい加減なことばっか言ってるに決まってんだ、無視しときゃいいんだよ!」

    あくまで言わずに済まそうとする弟を睨み付け、少し強く言ってやろうと大きく息を吸い込んだ、そのときだった。

    天井の白い明かりが一瞬揺れ、そして、

    消えた。

    暗闇。
    目の前で手を動かされても、分からないような。

「おいおい、停電か?    勘弁してくれよ」

    卓郎の慌てた声が聞こえる。

「電球が切れただけかも。他の部屋はつくんじゃないかしら」

「しょうがねぇな……姉ちゃんは動かないで待っててくれよ、危ねぇから」

    携帯電話のライトがチカリと浮かび、卓郎の、手を前に突き出したシルエットが浮かんぶ。大柄な体の輪郭は、摺り足でゆっくり移動し、引戸を開けて、消えた。ギシギシと、廊下が軋む音が離れていく。

    再び訪れる完全な暗闇と、シンとした沈黙。志穂子は大きく息をついた。両手で顔をこすり、そのまま止める。

    疲れた。ここ数日、帰宅が十時を越えるのが当たり前になっている。休日だってないようなものだ。こっちの労働状況を分かっていないのか、分かっていてあえてなのか、上司は次々と依頼をとってくる。上司がどうなろうと知ったことではないが、クライアントに罪はない。信頼して任せてくれる以上、いい加減な仕事をする訳にはいかない。

    私は頑張っている。疲労はたまる一方だが、それだけはいえる。
    私は、十分頑張っている。

    ……顔から手を離した。
    遅い。卓郎、何をしているのかしら。そもそも、夜とはいえ、この辺は古い民家が少しは並んでいる。それでも窓から少しの明かりも入らないものかしら。

    そういえば、月。
    月明かりもない。月も、ここからは見えなかった……。

「西澤の婆さんだけどよぉ!」

    突然耳の間近で大声がして、悲鳴を挙げた。

「卓郎!?    いつ戻ってきたの?    驚かさないで!」

「しずきちゃんがこの親父の家に出入りしてるところを、よく見るんだとよ!    夕方も、夜も。かなーり遅い時間に、ウロウロしてるとこ見たこともあるそうだぜ?    死んだ爺さんの家に、一体何の用があるんだろなぁ?」

「……え?」

    別の驚きにとって代わられ、志穂子は硬直した。

「……嘘。私のマンションからここまで、どれくらいあると思ってるの?    車で一時間はかかるわ。あの子が一人で、来れるわけないじゃない」

    語尾に被せるように、ケタケタと卓郎の笑い声が響いた。

「なんで言い切れるんだよ?    今日、しずきちゃん家に置いてきたって?    飯代だけ置いてさ。……それ、今日だけじゃないよなぁ?    自分の子どもの顔、まともに見た日あるのかよ?    自分の子どもが普段何してるか全く知らねぇくせに、なんで言い切れるんだよ?」

「あんたには言われたくないっ!!」

    ダァンと座卓を叩いて、ほとんど悲鳴のような声で志穂子は叫んだ。

「いい歳してフラフラしてる、あんたには言われたくないっ!    遊んでてしずきを見れないわけじゃない!    仕事なの!    私がどれだけ忙しいか、分かる?    仕方ないのよ!」

「……」

    返事がない。闇と静けさのなかで、志穂子は肩を揺らして息をきらしていた。

「……なんとか言いなさいよ」

    はぁ……と、吐いた息のようなぬるい風が、首筋にあたる。ヒッと首筋を抑えた。

「しずきちゃん、姉ちゃんにあんまり似てないよなぁ。背も小さいし。姉ちゃん、しずきちゃんくらいの歳のときは、もう結構でかかったろ?」

「なんの話よ……」

「でもさぁ、しずきちゃん、そっくりだよなぁ。小っさいのもそうだけど、目とか……あと雰囲気?    大きくなって、ますます似てきたんじゃねえの??」

    何を言われるか、分からない。分からないけど、衝撃に備えるように、志穂子は息を吸い込んで、止めた。

「あんたが大嫌いだった、オレたちの親父にさぁ!」

    スウと体が冷たくなるのが分かる。ぱっと天井の照明がつくのと、志穂子の目から涙が零れるのは、ほぼ同時だった。

「卓郎……?」

    震える手で頬をぬぐいながら、周りを見渡す。広い和室にいるのは、自分一人。座卓から落ちたペットボトルが、埃っぽい和室の隅に転がっている。

    廊下を踏む音が近づいてきた。

「ダメだ、どの部屋も明かりつかねえんだよ。やっぱ停電かよーって参ってたけど、なんだ、電気ついてんじゃん。良かったなぁ」

    卓郎が引戸の向こうからひょいと顔を出す。

「……おいおい、どうしたんだよ」

    姉のただならぬ様子にぎょっとしている。慌てて駆け寄って来るも、どうしていいか分からない様子の弟に、志穂子は低い声で尋ねた。

「あなた、今までずっと部屋の外にいた?」

    顎に力が入ってしまい、それだけ言うのがやっとだった。

「えっ……そうだけど。ごめん、勝手が分からねぇから、ちょっと手間取ったんだよ。暗いのそんなに苦手だったか?    悪かったよ」

    時間がかかったことを責められていると勘違いした弟は、とにかく謝ってくる。言葉を返す余裕もなく、志穂子は荷物を持って、まだ震える足で立ち上がった。

「ごめんなさい。帰るわ。戸締まり、お願いね……」

「え、家具とか確認するんじゃ……いや、いいよ。大丈夫か?」

    一刻も早く、この家から出たい。唇を噛みながら、早足で部屋を出て、廊下を抜ける。心配した卓郎が後ろからついてくる気配を確認しながら。ほんの少しの間でも、この家の中では一人にはなりたくない。

「家財の処分のことは、また相談しましょ。連絡するわ」

    パンプスを履きながら、前を向いたまま短く弟に告げると、返事も聞かずに玄関の引戸をガラガラと開け外に出た。

    夜風。

    後ろ手にピシャンと戸を閉め、目を閉じて深呼吸する。
    きっと、疲れているんだ。
    うたた寝した自分に、心労とこの家の奇妙な空気感が見せた、悪夢に違いない。

    ……そう、自分を納得させたのに。

    再び目を開いて、夜の暗がりのなかに見つけたのは。

    二、三歩歩いた先にある、門のところに立つ、小柄な後ろ姿。肩の下まで伸びた真っ直ぐな髪。見覚えのある中学校の制服。あれは、まさか、そんな……。

「しずき!?」

    エッという声が聞こえてきそうな驚きが小さな背中に走る。弾かれるように振り向いた顔は、薄い闇を通して見ても、娘のものとしか思えない。

「あなた、何してるの!    こんな時間に、こんなところで、何してるの!」

    鋭く、突き刺すように咎める激しい声が、喉の奥から出た。

「待ちなさい!」

    身を翻して逃げる後ろ姿を、ほとんどヒステリックに叫びながら追いかけ、門を出ると……

    曲がり角もない、真っ直ぐに伸びる道。
    電波塔の少し上にかかる満月が、誰もいないその道を、静かに照らしていた。

次話↓


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