偶発的な無意識との出合い


私の感性を引き出した英語の授業

私の大学では、履修科目を決めるために「授業見学期間」というのがあり、その期間はさまざまな教室を回って、授業を体験することができました。

教室のドアは終始開けっ放し。途中入室・退室も歓迎なので、教師からしたら自分の授業が学生に吟味されるような緊張感もあったかもしれません。

学生側は、学園祭のように事前に回る授業に目星をつけて向かうのですが、確かあの時の私は、間違ってあの教室に入った記憶があります。
それは、英語の授業でした。長い髪を結わえ、アンニュイな雰囲気の外国人の男性が話していました。どうやら、現代アートを英語で学ぶ授業だったようです。

「教室を間違えた。帰ろうかな・・・」と思ったとき、プロジェクターに映し出された鮮やかな現代アートにくぎ付けになりました。そして、話を聞いていくうちに、彼(教師)が現役のアーティストだということも分かりました。そのバックグラウンドにも惹かれ、結果として、私はその授業を履修することにしたのです。

その授業では、1990年代中期以降の現代アートが取り上げられ、当時は全く聞いたことも、見たこともないものばかりでした。座学だけではなく、実際に街中にある現代アートを探しに行って、そこから感じたことを発表する場もありました。

思えば、そのとき私が発表したアートは、この「雨に消える椅子」でした。「雨のときは、気づかずに通り過ぎてしまう」―― 自然現象と調和するアートに興味深さを感じたのではないかと思います。

無意識を引き出す現代アートたち

その授業で特に印象に残っているのは、「ニューヨーク派」の画家たちです。代表的な画家としては、ウィレム・デ・クーニング、ジャクソン・ポロック、マーク・ロスコが挙げられます。

その鮮やかさ、大胆さが大好きでした。アートのことが分からなくても、自分の無意識を探索できるような、そんな絵ばかりなのです。皆さんはこれを見て、何を感じますか?

ウィレム・デ・クーニング『発掘』(1950)

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ジャクソン・ポロック『コンポジション #16』(1948)

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この絵の面白さは、焦点が合わないところにあります。これといったモチーフがないので、鑑賞者によって着眼する点が実に多様なのです。

ちなみに、1つめはニューヨークでの現代的な生活を即興で描いたものだそうですが、「まったくそう見えなかった!」って人が殆どでしょう。鑑賞者の目には、むしろ直線や曲線、交点など、その動きやリズム感が印象に残るかもしれません。

2つめのジャクソン・ポロックは「アクションペインティング」で有名な画家で、キャンバスの上を歩いて、生命を放つようにダイナミックに絵を描くスタイルをとっています。ですから、静止画的なものではなく、動きを感じるアート鑑賞ができるでしょう。

私は、これらのアートは、無意識を探索することに力を発揮するものだと思っています。そこにある動きを、ただただ感じる。そして、そのリズム感のある絵に、自分の感じていることや発想が投影されることもよくあります。
明確なモチーフがその絵にはないから、そこには鑑賞者が何を感じても良い「余白」があるのです。とても自由な世界です。

意図的に無意識は出てこない

コーチングを受ける前に、瞑想(催眠状態)をすることがあります。顕在意識が強すぎると無意識は出てこないため、脳科学的にも瞑想は非常に有効と言われているためです。あとは、思いっきりダンスしてからコーチングするアメリカ人コーチもいました。それは、普段ない動きを取ることによって、顕在意識を緩めているのでしょう。

いずれにせよ、顕在意識の延長線上で動いている限りは、本来の自分が眠っている無意識は引き出しづらいとの共通見解があるのかもしれません。

私が意図せず履修した授業が、結果として、私のアートへの関心を引き出してくれました。ニューヨーク派の画家の大胆、かつ意図が読めない作品が好きだった理由も、私の深いところと繋がれる感覚があったからかもしれません。(これは、是非実際の展示を観てほしいです!すごい迫力なので!)

そういう意味では、本来の自分と繋がるには、意識的に考えすぎないことが意外と重要なのかもしれないですね。


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