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『義』  -吉田の敗戦- 長編小説



吉田の敗戦

 吉田に呼ばれた試合の日は、生憎の雨模様だ。生憎と言っても地下施設では無関係だが、駅へ向かうのが少々億劫だ。大輔は日課を終え、空のペットボトルに手作りのスポーツドリンクを注いだ。ペットボトル内にて弾ける水の音を聞いていると、吉田が飲んだペットボトルの口を、荒々しく吸い付いた先日の出来事を想起してしまう。不可抗力だった。不可抗力だったんだ、と揺らめく感情を押さえつけた。すると、自分の行った行為で間違いないのだが、まるで他人の自慰行為を、襖の隙間から覗き見ているように思えた。魔が差したのだろう。少し楽観的になった。

 ペットボトルの蓋をしっかりと閉め、汗拭きタオルを準備し、鞄に入れる。姿見で自分の姿を一瞥し、アパートを出た。小雨だったため、傘を差さずに駅まで走った。

 大輔と吉田は、BARにて一杯のバーボンを飲み、地下施設へ降りてゆく。吉田はいつもと同じの皺のないスーツに身を包み、磨かれた革靴を履き、太い首も分厚い胸板も、変わりない。変わりないからこそ、吉田の危惧が現実になるのだろうか、と大輔は少々不気味に思った。

 部屋に入ると、吉田は裸になり、格闘技のパンツに履き替える。雨粒が付いたスーツは、叩いて水滴を払い、衣装棚に掛ける。大輔は吉田の裸を直視出来ず、目を逸らした。

「今日も勝てますよね?」

 大輔は着替えを終えた吉田に問い掛けた。

「どうだろう。俺には分からない」

「吉田さんの鍛え上がった肉体に、そして洗練された肉体に、敵う相手はいませんよ。格闘技のテレビを見て研究したのですが、テレビに出ている選手は、吉田さんの動きに比べると、まるで止まっているよう遅く、華麗ではありません。吉田さんは、世界一です」

「買い被ってくれて、ありがとう」

「いえいえ、偽りではありません。友のため、『義』のために勝利して下さい。俺はリングに沈む吉田さんを見たくありません。きっと、墓で眠っている元さんも、応援してくれています」

 吉田の目つきが変わった。リングで対峙する相手を見る、鋭い目つきだった。

「この前作ってくれた、ドリンクはあるかい?」

 大輔は鞄から、ペットボトルを取り出して渡した。吉田は一口飲んで、蓋を閉じた。大輔はペットボトルを受け取る。

 「今日も美味しい。では、リングへ行こうか」

 吉田は歩き出した。大輔はペットボトルを鞄へ戻しながら、後を追った。

 二人が会場へ入ると、観客席が騒つき始めた。大輔は照明での眩暈を避けるために目を細めて、リングを眺めた。すると、対戦相手はリング上で、リングを囲むロープに脚を乗せてストレッチをしていた。対戦相手は、遠目でもわかるほど、細く小さな体躯だ。大輔は吉田が勝ったと確信し、伸ばした背筋を更に伸ばして、まるで勝者となったと言わんばかりに、無風を切りながら堂々と歩く。すると、ソファ席に座る富裕層たちの小話が、耳へ入ってきた。不明瞭だったが、恐らく賭けの話だろう。『吉田さんは負けませんよ』と、耳元で怒鳴ってやりたい気分だったが、黙って歩いた。地下施設の規約に反してしまうと、吉田へ迷惑を掛けることになるだろう。又そもそも、富裕層とは身分が違う。いつの間にか、感情の制御が出来るようになった。

 二人がリングサイドに着くと、リング上に立つレフリーはマイクを持ち、意気揚々と声を上げる。

「青コーナー 吉田 雅彦」 

 吉田は大輔を一瞥し、リングへ上がる。大輔は吉田の目に、違和感を感じたが、深慮すべきことでもないだろう、と吉田の背中を見た。

「赤コーナー 佐藤 詩音」

 リング上の佐藤は、まるで小動物のように、バック転をする。佐藤の動きに魅了された富裕層が、歓声を上げた。すると再び、佐藤がバック転を行った。大輔は佐藤のパフォーマンスへ憎たらしさを感じた。

「吉田さん、倒して下さい」

 大輔は吉田の背中に向かって叫んだ。

 レフリーが吉田と佐藤を集めて、ルールを説明する。佐藤はニヤついている。対する吉田は、いつも通りの厳格な表情だ。レフリーのルール説明が終わり、二人は離れ、各コーナーへ分かれる。

 静音が激しく流れ、次の瞬間、静音を叩き割るようにゴングが鳴り響いた。

 吉田は構えて、ゆっくりと距離を詰め始めた。ノーガードの佐藤は、体制を低く保ち、俊敏な動きで、吉田に向かってきた。冷静な吉田は、相手の奇妙な動きに眩惑する事なく、ジャブを振り下ろす。すると、佐藤は吉田のジャブに合わせ、頭を沈み込ませて胴回し回転蹴り放った。佐藤の踵が、虹のように美しい弧を描きながら、吉田の顔へ向かってゆく。目に留まらぬ速さだ。

 佐藤の踵は、吉田の頬を掠めて、乾いた音を立てて地面に落ちた。吉田の顔面へ致命傷を与えることはなかった。佐藤は胴回し回転蹴りの特質上、リングマットに背から落ちた。

「吉田さん。今です。相手は倒れています」

 大輔はリングマットを両手で叩きながら、大声で吉田へ指示を出した。独りのセコンドとして、驕傲な態度を取りたかったわけではない。吉田が固まっていたからだ。冷静沈着な吉田が石像のように固まっていたからだ。

 大輔の声が吉田の耳に届き、固まった身体が溶けた頃には、寝ていた佐藤が起き上がり、不穏な笑みを浮かべていた。佐藤のセコンドは、真面目にやれ、と野次を飛ばした。吉田は好機を逃してしまった。吉田の目付きが変わった。

 その後、吉田の動きには、鉛のスーツを着ているように、動きに軽やかさがなく、心を、そして目を剥奪するような美しさが無くなった。大輔は言葉にならない奇声を発し、リングマットを叩き続けた。そうしなければ、吉田が負けてしまうと痛感したのだ。吉田が正常ではない。

 観客席から、珍しく罵声が飛ぶ。吉田へ大金を賭けているのだろう。試合前までは、大輔も吉田の勝利を確信していた。リング上で、何かが起ころうとしている。

 佐藤はちょこまかと動き、吉田の太い足へローキックを浴びせて、すぐに距離を取る。次第に、追い掛ける吉田は肩で息を始めた。表情が険しく、動きに機敏さがない。吉田の体格ならば、寝技に持ち込めれば、容易に抑え込むことが出来るはずだ、だが、接近戦に持ち込めずに捕まえることが出来ない。

 大輔はマットを叩き続けながら、吉田の美しい肉体を見続けた。『義』の象徴だった吉田が負けてしまうのだろう。恐怖と寂しさが吹き出し、感情を蝕む。

「吉田さん。寝技、寝技」

 大輔は指示をした。吉田は大輔の言葉に従い、体格を活かしながら強引に、佐藤をコーナーに追い詰めてゆく。追い詰められる佐藤だが、怯えるどころか、顔に笑みを浮かべている。ノーガードで、妙なゆとりだ。吉田は右のストレートを放った。

 次の瞬間、吉田の身体は膝をつき、リングマットに沈んでしまった。

 会場から、怒号が上がる。観客は何が起こったのか分からないだろうが、大輔は目の前のコーナーで起こった惨劇を見ていた。吉田の大振りの右ストレートに合わせて、佐藤が沈み、吉田の顎に向けて、アッパーを放った。そのアッパーが吉田の顎を捉えた。吉田の顔から汗が飛び散り、マウスピースを咥えたまま、溶けるように静かに沈んだ。大声を上げていた大輔は声が消え、リングマットを叩く手も止まった。

 レフリーが吉田に駆け寄り、手を振り試合が終わった。そして、吉田は敗者となった。佐藤は観客に向かい中指を突き立て、勝利のポーズを取っていた。

 一部の観客からは歓声が上がっているが、それは季節を間違えた蝉の鳴き声のようで、殆どの観客は静まり返っていた。吉田にお金を賭けすぎていたのだろう。

 大輔はリングに登り、吉田に駆け寄った。吉田はうっすら目を開けている。天井に吊るされた眩い照明を浴び、恍惚としていた。

「吉田さん」

 大輔は耳元で叫んだ。すると、吉田は目に力が戻り、素早く上半身を起こした。

「負けたのか・・・」

 吉田は小声で呟く。大輔は言葉もなく、腕で吉田の背中を支えた。

 大輔と吉田は会場を後にし、部屋に帰った。二人は終始無言だった。部屋のソファに座り、大輔がテレビを点け、いつも通りの田舎の映像を二人で眺めた。大輔は試合後の敗者コーナーに蠢く空虚と、テレビに映る田舎の情景が、そこはかとなく似ているように感じた。賞賛も賞金のない敗者と、人のいない田舎の寂しさと似ているのか。勝者への憧憬と、田舎に住む人の都会への憧憬が似ているのであろうか。難しい顔をしていると、吉田が口を開いた。

「今日は、来てくれてありがとう。やはり、負けてしまった」

「吉田さんの調子が悪かっただけだと思います。決して強い相手ではありません。回転蹴りも、観客を沸かせるための演出でしょうし。最後のアッパーも、偶々、運が悪かっただけで・・・」

「ありがとう。でも、負けは負けだ」

「また、再戦しましょうよ。次は勝てますよ。絶対に、勝てます。あんなふざけた相手に負けて終わるなんて、悲し過ぎます」

「もう、いいんだ」

「何故です?」

 大輔はテレビを消し、吉田の顔を見た。すると、吉田の頬に一本の輝く水の線が浮かんでいた。水の源泉は、吉田の深く彫り込まれた目だった。目から涙が流れ、頬から顎に流れ、盛り上がった胸の上に滴る。張りのある、艶のある皮膚の上を滑り出した。

「吉田さん? 大丈夫ですか?」

「ああ」

 吉田の声が震えていた。大輔は鞄から汗拭きタオルと取り出し、吉田の膝の上へ置いた。手が僅かに動いたが、タオルを持つことはなかった。吉田は拒んでいるわけではなく、これまで溶け合っていた精神と肉体が、分離していた。

「僕が拭いても良いでしょうか?」

 大輔の問いに、吉田は頷いた。大輔はタオルを持った。下腹部から胸へ向かって拭き上げてゆく。吉田の肉体の凹凸がタオル越しではあるが、明瞭に伝わってくる。初めて、吉田の肉体を味わっている。吉田の呼吸に伴い、胸筋が膨らみ、萎む。鼓動に伴い、一定のリズムで胸筋が振動している。大輔は、吉田が生み出す生命の息吹を堪能したくなり、拭き上げている手を止めた。仏閣に眠っている造形品に触れているような感覚に陥る。『義』の象徴の肉体に触れているのだ。敗者であり、厳格を失い、老衰した男のように恍惚となる吉田だが、生命の息吹は耐えていない。当たり前の話だ。吉田の肉体は生きている。吉田への同調以上に、自分の感情が先行していた。もちろん、罪悪感も多少あったが、吉田の肉体を触れる嬉しさが優った。

 吉田の胸からタオルと離し、タオルを折り返して、綺麗な面を表に出し、涙が流れる頬にタオルをそっと当てた。頬は肉が殆どなく、ゴツゴツとしていた。タオルに涙が吸い込まれてゆく。

 涙の筋を拭き終わり、タオルを離した。吉田は瞼を閉じている。流れていた涙は止まっていた。

「ありがとう。今日は来てくれて、ありがとう」

 吉田が言った。

「俺は吉田さんのセコンドです。いつでも力になります。力になりたいのです。他に何か出来ることはありませんか?」

「ありがとう。気持ちだけで、嬉しい」

「ちょっとシャワーを浴びてくる」

 吉田は立ち上がり浴室へ向かった。

 大輔はシャワーの音へ耳を傾けながら、吉田を待つ。先ほどまで、指先で味わっていた吉田は、浴室で裸になり、脇の下も膝裏も、指先、陰部、一つ一つを撫でているだろう。指先を凝視した。照明にて指紋が浮かび上がるが、吉田の肉体を触っていた感触も、まるで指先から空間へ、描写を投影させるように、明瞭に浮かんでいる。吉田の肉体に触れたのだ。いつの間にか、陰茎が熱くなり、反り立っていた。

 他人の部屋での生理的現象への羞恥、罪悪感と共に欲情する感情、大輔は反り立つ陰茎を股に挟み、不恰好な様で座り、この姿を折檻してくれと、無形の隣人へ懇願した。




続く。

花子出版   倉岡



文豪方の残された名著を汚さぬよう精進します。