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『義』  -大輔がやるべきこと- 長編小説



大輔のやるべきこと

 吉田は純白のパンツを履き、試合準備を整えた。贅肉の無い引き締まった肉体は、側から見ると衰えを知らない曠古な肉体だ。吉田が負けた過去など、世界中の誰が信じるだろうか。吉田の肉体を見れば、殆どの格闘家がひれ伏すに違いない。試合前の吉田は、殺気立っていた。隣に立つ大輔は、吉田の威圧に押し潰されそうになりつつ、口を開いた。

「吉田さん。俺もリングで戦いたいです。強くなりたいです。いえ、強くならなければなりません。お願いします。こんな格闘技をやっと事がない素人が、プロと対等に戦うなんて、格闘技を馬鹿にしていると怒られるかも知れません。でも、どんなに批判されても良いんです。それでも、戦いたいんです。駄目でしょうか?」

「大輔、何故戦う? 金のためか? 名誉のためか?」

「『義』のためです。実は、先日、俺の幼馴染が死にました。山岡元さんと同じような言葉を残して死にました。『大輔くんは、僕の分も強くなってね』。これが最後の言葉です。幼馴染は、俺との思い出を食べながら生きていました。しかし、俺の人生は違いました。俺は、一番大事なものを失いました。罪深い男です。だから、幼馴染の言葉を守るために、戦う道しか残っていません。それが『義』、即ち俺の道です」

 吉田は何も言わずに、試合会場へ向かって歩き出した。大輔は後を追った。

「吉田さん、お願いします」

 吉田は答えずに歩き続けた。

 リングサイドに着いた。吉田の対戦相手は、未だ到着していない。吉田はパイプ椅子に座り、腕組みして瞼を閉じた。眉間には皺が寄っている。

「大輔」

 吉田が口を開いた。深みのある声色だ。

「はい」

 大輔は威勢良く返事をする。

「戦うということは、簡単ではない。死と隣り合わせだ。それは、肉体的な瓦解だけではなく、精神的な瓦解も伴う。一度踏み込んでしまうと、本来の自分に戻れなくなるだろう。俺が本来の自分を見失ってしまったように。全てを捨ててでも、リングに上がる覚悟はあるか? 友のため、『義』のために」

 吉田は瞼を開いた。吹き飛ばされそうな眼力が、大輔の肉体を包み込む。

「はい」

 大輔は静かに返事をする。すると、吉田は再び瞼を閉じた。

「分かった。では、リングに上がれるように手配しよう。初試合は一週間後だ」

「えっ」

 驚く大輔は、言葉に詰まった。たった、一週間でプロの格闘家と対等に殴り合いを出来るのだろうか。プロの格闘家は、何年もの間、厳しい鍛錬を積み重ねた経験と実績がある。人より多少運動神経が良い男が、大学のトレーニングルームでお遊び程度に肉体を鍛えている男が、喧嘩をもしたことのない男が、格闘家と殴り合いを出来るのだろうか。常識を持った人間なら、無謀な押し付けだと言って、嘲笑するだろう。だが、吉田は言い切ったのだ。

「下準備が必要ではありませんか?」

 大輔は慎重になった。

「要求は一切受け付けない。相手に殴られ、蹴られ、関節技を決められ、そして骨が折れようと、何針も縫わなければならない傷を負うことになろうとも、そして最悪の場合の死に至ろうとも、それは運命。『義』を果たした男の宿命だ。地下施設の俺の部屋の隣に、トレーニングルームがある。必要ならば、俺が指導する」

「ありがとうございます」

 大輔は礼を言ったが、逃げ出したくなるほどの恐怖が襲ってきた。相手から殴られると痛いだろう。蹴られることはもっと痛いはずだ。溺愛するわけではないが、不男ながら気に入っている顔の部位ももちろんある。それすらも、もっと醜く歪んでしまい、鏡を見るのを拒絶してしまうのではないだろうか。だが、もう、後には引けない。『義』の象徴の吉田の要求に、返事をした。ここで、撤回してしまうと、自分の存在すら消え去り、死よりも恐ろしい何かが待っているだろう。何かは、分からない。吉田との決別かも知れない。亡き貴洋を、殺すことかも知れない。自分の矜持がなくなり、腑抜けな、軽佻浮薄な男に染まってしまうのかも知れない。

 吉田の対戦相手が到着し、会場が騒つき始めた。

 レフリーがリングに上がり、マイクを持つ。

「青コーナー 吉田 雅彦」

「赤コーナー 山本 結城」

 対戦相手の山本は、軽快にリングへ上がった。吉田はパイプ椅子から立ち上がり、大輔を見下ろす。

「俺の戦いを見ろ。大輔の参考になるように戦う。安心しろ、負けはしない」

 吉田はリングに上がり、リング中央に向かう。レフリーからルール説明を受け、両者は各コーナーに分かれた。

 ゴングが鳴った。

 吉田は両手で顔を守りながら、慎重に距離を詰めていった。山本は吉田に詰め寄り、ストレートパンチの連打を繰り出す。吉田はガードを固める。山本のパンチは吉田のガードを破る事が出来ず、腕を殴るのみだ。山本のボディブローにも、吉田は肘を下げて受け止める。ローキックにも、膝を素早く上げて去なす。完全に相手の攻撃を見切り、城壁のような防御で、相手を封じ込めてゆく。

 焦燥する山本のパンチが大振りになった瞬間に、吉田はカウンターを放ち、アッパーカットを顎に食らわす。的確に下顎を捉え、山本の表情が歪む。しかし、明らかに吉田は手を抜いている。本来なら、ダウンを奪う事が出来るパンチでも力を抜いている。相手を掴み、寝技に持ち込める距離でも、突き蹴りで距離を離す。一回だけではなく、何度も。吉田は、プロの格闘家相手に、戦いの見本を見せているのだ。危険なはずだ。リングに上がる山本も、相当な腕前だ。

 大輔は試合を見入る。吉田の格闘技術や肉体美もさることながら、精神の美しさもリング上で、美しく花開いていた。吉田の攻撃に合わせ、大輔の煮詰まった不安が希薄になってゆく。吉田が側にいる。亡き貴洋も側にいる。『義』を遂行する健斗もいる。

 長い攻防が続く。もちろん、大輔への見本のため、吉田は敢えて山本を生かしている。だが、吉田の敗戦を知る富裕層の観客は、やはり吉田は不調だと勝手に決めつけ、不穏な笑みを浮かべながらワインを飲んでいる。山本に大金を賭けているのだ。

 富裕層の期待は、見事に崩れ去った。吉田ジャブの連打にて、ロープを背にした山本は、抜け出そうと足を動かす。その瞬間、吉田は上半身を動かさずに、右足を振り上げた。吉田の右足は巨木のように、又柳の木のように硬軟となり、山本の頬に突き刺さった。山本肉体が棒のようになり、ロープに打つかり、リングに沈んだ。すると、レフリーが駆け寄り、試合を止めた。

 吉田は青コーナーに帰ってくる。吉田と大輔は、互いの持つ感情を瞳で表した。

 試合後、吉田はシャワーを浴び終えた。そして、大輔と吉田は隣の部屋に移動した。誰もいない広々とした室内は、大学のトレーニングルームとは、雰囲気が違う。研ぎ澄まされた緊張感があった。軽くストレッチ終えた大輔は、吉田からグローブを受け取り、サンドバッグを打ってみた。見様見真似だ。すると、拳から跳ね返るサンドバッグの重みが、思いのほか心地よく感じた。数回打っていると、腕を組んで見守る吉田が口を開いた。

「うむ、悪くないな」

 吉田の表情が柔らかくなっていた。

「ありがとうございます。では、何から、トレーニングすれば宜しいでしょうか? 握りこみでしょうか。足運びでしょうか。それとも、スパーリングを始めるのでしょうか・・・」

「俺は、大輔の地下施設への正式登録と、大輔の試合スケジュールを組む為に出掛ける。合鍵を渡すから、自由に使ってくれ。部屋にあるテレビで格闘技の動画を見て研究するのも良いだろう。では」

 吉田は合鍵を置き、トレーニングルームを出ようと、ドアノブに手を掛けた。

「ちょっと、待って下さい。御指導をして頂けないのでしょか?」

「自分の力で、戦ってみろ。一週間あれば、強くなれる。俺がそうだったように。それで難しいのなら考える。さっさっと始めろ。時間がないだろ。亡き幼馴染が、そんな顔を見たら、悲しむぞ」

 吉田は部屋を出て行った。

 取り残された大輔は、何もしないわけにはいかない。動き辛いジーパンを脱ぎ、Tシャツとパンツのみで、サンドバッグに向かう。先ほどの吉田の動きを、何度も何度も想起させ、パンチのキックを組み合わせて、サンドバッグを揺らしてゆく。

 不慣れな動き、使っていない筋肉に負荷をかける動きは、体力を奪ってゆく。汗が吹き出し、息も上がってしまった。しかし、時間がない。試合が一週間後に迫っている。対戦相手は、長身の外国人の格闘家かも知れない。相撲出身の強靭な肉体の格闘家かも知れない。恐怖にて怖気づき、逃避すれば『義』に背いた代償として、貴洋との記憶が消えてしまうだろう。いや、記憶は心のどこかで生き続けるのかも知れないが、それを掘り出し、より高貴な記憶へと磨き上げることが出来なくなるだろう。磨き上げる手が、泥水を触れたように穢れているからだ。負けたって構わない、限界まで強くなろう。大輔は奥歯を噛み締め、サンドバッグを打ち続けた。

 サンドバックからは重みのある音が鳴り、部屋全体に響いた。


続く。

花子出版   倉岡




文豪方の残された名著を汚さぬよう精進します。