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雲の影を追いかけて    第7章「後半」全14章



第7章「後半」


「ただいま」

 玄関の扉を開け、中に入った。玄関の明かりは点いていた。祥子が点けてくれていたのだろう。玄関の明かりを消し、リビングの扉を開けた。天井の薄暗い豆電球の下、寝巻きを着る祥子がソファに座り、瞼を閉じていた。白い手が『月の雫』の本を握りしめている。裕は音を立てず、祥子の隣に座った。祥子の寝息が聞こえてくる。祥子の顔を眺めた。仄かな明かりが、化粧を落とした祥子の顔を照らしている。目尻、法令線、顎、額、瞼、至る処の皺が、水墨画の墨のように濃淡を刻みながら走っている。若い女性が持つ、水を弾くような瑞瑞しさはない。裕の瞳が顫動する。これまでに培った視覚的の美への執着と、加速する祥子の老化は、今後どのような道筋を辿ってゆくのだろうか。恐怖の足音が、聞こえた。

 すると祥子は人の気配を感じ、瞼をゆっくり開けた。

「裕君、お帰りなさい。芥川賞の受賞、本当におめでとう」

 祥子は笑みを浮かべた。裕は祥子の顔を凝視し続けた。

「私の顔に何か付いているの? そんなに真剣な目で見られると、恥ずかしい」

 祥子は両手で顔を覆った。薄暗い照明が、祥子の手を照らした。顔と同じように皺が目立つ。

「ごめんね。愛する人を、脳裡へ焼き付けたかったんだ。ただいま、祥子さん」

 裕は顔を覆う祥子の手を退けて、頬に口付けをした。

「ありがとう。記者会見で、お話が上手くなったのかしら」

「見ていたの?」

「うん」

「そうか。ごめん、『年の差婚』の事や、祥子さんの事を公言してしまった。祥子さんは、『公言して欲しくない』って言っていたけれど。本当にごめん」

「大丈夫よ。裕君の大事な選択でしょうし。あ、父さんも受賞喜んでいたわよ。もう寝ちゃったと思うけれど」

「それは良かった。今後取材とか、忙しくなりそうだ。編集者が言っていたよ。これから、二人のためにも頑張るよ」

「うん。体調に気を付けて頑張ってね。何か食べる? 作るわよ」

「そうだね。少し食べようかな。それに、お酒も飲もうかな」

「準備するわね」

 祥子は立ち上がり、リビングの照明を点けてキッチンへ向かった。

 裕はテーブルに置かれた『月の雫』を手に取った。ページを捲り、自分の書いた文章を読む。文豪に顔向け出来ないような拙い文字が並んでいる。時代の流れに乗り、幸か不幸か芥川賞を受賞してしまった。これから、自分の書いた小説が、無数の伝書鳩を放つように待ち望む読者の元へ飛んでゆく。その伝書鳩は、話題性という上昇とも下降とも表せない奇妙な気流へと乗ってゆく筈だ。

 斜め読みしていた、本を閉じた。閉じたくなった。本をテーブルに置き、祥子が作る料理を待った。

「お待たせ」

 祥子が手料理を持って戻ってきた。

「乾杯しよう」

 グラスにビールを注ぎ、二人はグラスの縁を重ねた。乾いたガラスの音が鳴り、リビングへと染み渡った。二人はビールを飲み、料理を食べた。壁に貼られた時計は、日の跨ぐ瞬間へ急いでいるようだった。


「ねえ、裕君。まだ起きている?」

 裕の腕に頭を乗せる祥子は、囁くような声を出した。裕は片足を夢の世界へ踏み入れていたが、踏みとどまり、祥子の声に耳を傾けた。

「どうしたの?」

「起こしてしまって、ごめんなさい」

「大丈夫だよ」

「お父さんの事だけれど。最近、めっきり弱ったなと思って。顕著に分かるのよ。もう、長くはないのかも知れないわ。数日後って言うわけじゃないと思うけれど」

「そうか。確かに、食事をせずに寝ている時間が増えた気がするね。少しでも、長生きして欲しいね」

「うん・・・。私ね、不安になることがあるのよ。私は長いこと父さんの介護をしてきて、人生の多くの時間を費やしてきた。私の時間と幸せを捕食して、父さんは生きてきたんじゃないのかな、と思うことがあるの。だとすると、父さんの死後に残る私はどうなっちゃうのかな」

 祥子の涙が、裕の腕に落ちた。祥子は変わらぬ声量で話を続けた。

「裕君を愛し、裕君と結婚し、裕君との時間が増え、自分の父さんが衰弱していく。でも、この衰弱を嬉しく思う悪魔的な影が、意識の隅っこで叫んでいるの。介護は全く苦じゃなく、嫌いじゃないのよ。でも、そう思うことがあるのよ。父さんの人生はこれで良かったのかしら。こんな、娘を持ってしまって、悲しく思わないのかしら」

「自分を責めることはないと思うな。口に出さなければ、祥子さんの気持ちなんて父さんには分からないよ。僕は当事者でなく、義理の息子という立ち位置。介護を熱心にする訳でもなく、傍観者のような人間だから、あれこれいうことは出来ないけれど、恐らく、和夫さんは祥子さんの献身的な姿に感謝していると思うよ。いや、絶対に。和夫さんの顔を見ていると、老いてゆくなかで安らかな気持ちを咀嚼しているようにも見える。だから、ここまで介護を全うすれば、例え祥子さんに悪魔的な部分があろうとも、和夫さんは満足だと思う」

「そう言ってくれると、安心したわ。長い間、一人で見えない鎖に繋がれていた気分だったの。裕君との出会いが、私の内なる鎖を切り落としてしまって、様々な感情が噴出している。私は裕君とずっと一緒に居たいの」

「鎖か。秀逸な例えだね。人間誰しも、鎖を切っては繋ぎ、切っては繋ぎを、絶えることとなく繰り返しているのかも知れないね。父さんへの、献身的な鎖は切れそうで、僕との愛情の鎖が結ばれ、そして父さんへの冷淡な鎖が結ばれつつある訳だ」

「こんな、おばさんと鎖を結んじゃって、裕君は不安になることはないの?」

「うん。結果は変わらないよ」

「ありがとう。ごめんね、明日も仕事なのに、起こしてしまって。おやすみなさい。そして、受賞おめでとう」

「おやすみ」

 二人は乾いた唇を重ねた。

 悪魔的な影。眠りに向かう最中、裕は自分の放った言葉を思慮する。口に出さなければ、思慮は自由である。しかし、その思慮は精神までも蝕む可能性を秘めている。献身的に父の介護に勤しむ祥子の悪魔的な影は、野原の枯れ草のような可愛いものだろう。反して、自分に潜む悪魔的な影は、時間の経過と共に、濃く狂気に満ち始めていた。意図的に結婚し、受賞会見で祥子の話題を出し、小説家としての地位を確立させた。その罪は果てしなく大きいものではないだろうか。いずれかは自分の精神も蝕まれ、祥子を愛せなくなる日が来るのだろうか。暗澹たる気持ちの中、背筋に冷たい何かを感じ取った。鋭利な刃物のような冷たい何か・・・。



第8章「前半」へ続く。




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