『義』 -大輔と幼馴染の再会。秘密基地にて- 長編小説
大輔と幼馴染の再会。秘密基地にて
大輔は、気が付くと暗闇にて体育座りをしていた。尻に畳の感触が感じられない。自宅ではなさそうだ。土の香り、夏草の香り、木の香りが漂っている。膝を抱えていた手を離し、地面を撫でると、木の板が触れた。目を凝らして辺りを見渡すも、酔いが醒めておらず、鬱蒼と茂る木々や笹薮に焦点を合わせるが出来ない。
突然、手の甲に何かが触れた。冷水のように冷たく、弾力がある。
「大輔くん」
大輔の手の甲を触る人が囁いた。消えそうな声だ。
「君は? ちょっと酔っていて、分からないんだ」
大輔は声の主に問い掛けた。
「僕はね・・・、貴洋。大輔くんと幼馴染の貴洋だよ。覚えている?」
貴洋の声で、酩酊する大輔の意識が、少しだけ鮮明になった。
「貴洋くん。どうしてここにいるの? 一体、ここはどこなの?」
「一緒に歩いて来たんだよ。ここはね、二人で作った秘密基地。永遠に二人だけ場所だよ。大輔くん、大きくなったね。骨がこんなに太くなって、筋肉もこんなについている。羨ましいなあ」
貴洋の指先が、大輔の腕を這ってゆく。
「貴洋くんの指先は冷たい。相変わらずだなあ」
「僕の時間は、小学校を終わった時を境に、まるで電池を抜いた時計のように、ゼンマイを巻き忘れた時計のように、止まってしまったんだよ」
大輔は貴洋の指先を握った。貴洋の指先は、女の子のように華奢だったが、幼児の手ではない。貴洋の身体も成長していた。
「楽しかったね。あの頃は」
「ねえ、大輔くん。何か飲む? お酒飲み過ぎているから、きっと喉が渇いているよね」
「ありがとう。貴洋くんは準備が良いね。それも、貴洋くんの変わらないところ。大人になったんだから、一緒にお酒を飲もう。ビールはある?」
「もちろん」
貴洋はリュックサックからビールを二缶取り出した。リュックサックから取り出したビールは、冷蔵庫から取り出した後のように冷えていた。
二人は栓を開け、乾杯をし、ビールを飲み始めた。
「冷えていて美味しいなあ。子供の頃に飲んだ、ジンジャーエールを思い出すよ。それにしても、いつの間に、秘密基地に来たんだろう。部屋でバーボンを飲んでいる時までは、記憶にあるんだけれど。俺って、そんなに酒癖悪かったかなあ。こんなに記憶が飛んでしまったのは、生まれて初めてだ。父譲りの酒乱なのか」
「そんなことは、どうでも良いことだよ。僕はね、この秘密基地でお話を出来るだけで嬉しいし、大輔くんといると安心するんだ」
「この秘密基地、よく残っていたね。笹薮に食い潰されたと思っていた」
「当たり前だよ。だって、僕は偶に来て、笹を切ったり、雑草を刈ったり、敷いている板が古くなったら交換しているんだよ。だって僕らの秘密基地でしょ」
「高校生や大人になっても?」
「うん」
貴洋の声は弾んでいた。貴洋の声を聞き、大輔の感情は激しく締め付けられた。貴洋の澄んだ瞳を見ると、目から涙が溢れだした。貴洋との友情は、中学にて希薄になり、時間と経過と共に霧消したと思っていた。しかし、それは勘違いだった。実際には、貴洋の中で誰かに啓蒙されることなく、時間の経過と共に一層濃くなっていたのだ。自分の愚かさが、憎い。精神と乖離し肉体だけが誇大となってしまった、自分が憎い。Tシャツで涙を拭った。
「ごめん。俺は、貴洋くんの気持ちを分かっていなかった・・・」
大輔は声を出した。喉元が苦しく、声が震えた。貴洋は腕を大輔の背中に回し、肩を握った。貴洋の華奢な指先は、大輔の肩を優しく撫でる。
「大丈夫。気にすることはないよ。大輔くんは、大輔くんらしく生きたら良いんだよ。僕はね、こうやって再会出来ただけで十分だから。だって、美味しいビールを、一緒に飲めるようになったんだよ。ねえ、ビールを飲もうよ。そして、大輔くんの話をもっと聞きたいなあ。何か話して欲しい」
大輔はビールを飲んだ。締め付けられた感情が、ほんの少し治ったような気がした。
「俺はね、ある日、『義』を大事にして生きようと決めていたんだ。でも、貴洋くんを蔑ろにしていたなんて、そもそも『義』に背いていた。貴洋くんのことは、心のどこかでずっと引っかかっていたんだ。けれど、怖くて怖くて目を伏せていた。俺なんて、結局のところ偽善の象徴さ」
「ぎ?」
「そう『義』。大義や、正義って言葉は知っているだろう? その『義』を、大事にしているつもりだった。でも・・・」
「『義』かあ。さすが大輔くんは、素敵な言葉を持っているんだね。決して気負いすることはないよ。こうやって、一緒に会えたことが、『義』の遂行だと思ったら良いと思う。大輔くんが、こんな小さな事で悩むなんて勿体ないよ。涙の似合わない男だよ。
僕はね、これまでに何度涙を流して、大輔くんに助けてもらったか分からない。きっと、僕らの上に浮かんでいる星の数くらいはあるんじゃないかなあ。だから、大輔くんが泣いていたら、僕はどうしたら良いのかも分からなくなるよ」
貴洋の言葉を聞き、大輔は力の限りの瞼を閉じ、絞り出すように一粒の涙を流した。涙が頬を伝うのが分かる。すると、頬に貴洋の指先が触れた。貴洋の指先は、涙を探し、頬をゆっくりと撫でだ。こそばゆいが、決して不快でない。異性に触られた時のような、皮下の神経が敏感に反応した。
貴洋の指先は、最後の涙を拭い去って、大輔の頬から離れた。
「ありがとう。もう決して、泣かない。どんなことがあろうと」
「約束してくれる?」
大輔は小指を突き出し、貴洋の顔の前で浮かべた。貴洋は笑みを浮かべた。大輔の太い小指と貴洋の細い小指が、固く絡んだ。
大輔は懐古的な淡い感情と再会の愉悦に浸りつつ、しじまが降り注ぐ秘密基地にてビールを飲んだ。ビールが空になると、貴洋が鞄からビールを取り出した。時間が経過しているはずだが、取り出すビールはどれも冷えている。まるで魔法の鞄から取り出すように。
「貴洋くんは、今は仕事しているの?」
大輔は問い掛けた。
「僕の話は、やめよう。聞いても詰まんないと思う。大輔くんのように華やかじゃないからね。ねえ、大輔くんの東京の話を聞きたいなあ。大輔くんが、どんな大人になったのかを知りたい」
「俺の話も、華やかとは言えないな」
「大丈夫だよ。きっと華やかだと思う。もし華やかじゃないとしても、僕の心の中で華やかに咲かせるから安心して、話してほしいな。絶対に他言しないよ。男二人の秘密。僕らは、幼馴染だもん」
「分かった・・・」
大輔は、大学生活のこと、彼女と別れたこと、アルバイト先の店長と喧嘩をして辞めたこと、健斗のこと、更には地下施設でのこと、吉田のことなどを事細かに話した。地下施設で見聞きしたことを他言するのは規約違反だと理解していたが、隣に座る貴洋へ伝えたかった。紙切れに署名した契約書よりも、積み重ねた不可視の友情が、ずっと高尚だ。いや、高尚であって欲しいと願った。
貴洋は無垢の瞳を輝かせて、まるで幻想の一幕を観賞しているように、遮る事なく聞き入った。
大輔は長い話を終えた。裸になり体液を出し切った後のような、爽快感と開放感に襲われた。血中を走り回っていたアルコールは、いつの間にか揮発し、心身ともに素面に戻っていた。
「大輔くん、元気になった?」
貴洋が大輔の手を握った。
「聞いてくれて、ありがとう。元気になったよ」
二人は手を握り合った。
「ねえ、帰ろう。もう、夜が明けるよ」
貴洋は立ち上がり、大輔の手を引いた。大輔は貴洋に力を委ねた。
二人は秘密基地の笹薮を抜け、夏草が綺麗に刈り取られた畦道を、音を立てながら歩く。貴洋は軽快に口笛を吹いていた。懐かしいメロディ。大輔は口笛の曲名を思案したが、分からなかった。小学校の校歌だろうか。
大輔の家の庭先に着いた。貴洋は大輔と手を離した。
「貴洋くんの家まで送っていくよ。ビールを準備してくれたし、何より、ずっと友達でいてくれて嬉しかった。家はあっちだよね?」
大輔は言った。
「独りで帰れるから、大丈夫。またね、大輔くん」
貴洋は手を振った。
「俺たち、また会えるかな? もし、よかったら連絡先を交換しようよ。連絡するからさ」
「あ、ごめんね。携帯電話は家に忘れてきたんだ。でも、きっと又会える。僕ね、東京に行ってみたいなあ。大都会を、この足で歩いてみたい」
貴洋は俯いた。
「是非おいでよ。色んなところを案内してあげる。この村も素敵だけれど、東京も面白い街だよ。貴洋くんも気に入ると思う」
「ありがとう。怖い人が沢山いるような気がするけど、大輔くんが一緒なら安心だ」
「ああ。そのために、鍛えているんだ。ほら」
大輔はTシャツの袖を捲り、腕を曲げ、二の腕の筋肉を誇張させた。
「凄いなあ、羨ましいよ」
二人は目を合わせ、笑みを浮かべた。暗闇だったが、大輔の目には、貴洋の屈託のない笑顔が明瞭に映った。
「じゃあ、またね」
貴洋が立ち去ろうとする間際、大輔は、ふと咲子のことを思い出した。
「あ、ちょっと待って。ねえ、さっちゃんとの事はどうするの? 二人は結婚しているんだよね? 昨日、さっちゃんと会って、色々話したんだ」
貴洋は立ち止まり、振り返った。
「うん、結婚している。けれど、さっちゃんには悪いと思うけれど、僕らは終わりだと思うんだ」
「どうして?」
「さっちゃんのため。さっちゃんにはもっと良い人が現れると思う。僕なんて、何にも出来ない男だから。迷惑掛けてばっかり」
「そうなのかなあ・・・」
大輔は思慮に耽る。
「もう、夜が明けるよ。じゃあね、大輔くん。また、どこかで会おうね」
貴洋は手を振りながら、狭い道路を駆け出した。大輔は貴洋の後ろ姿を目で追ったが、いつの間にか暗闇に溶け込み、見えなくなった。すると、ある疑念が湧く。記憶する限り、貴洋の家は反対方向だった。どこに帰るのだろう、と不思議に思うも、再会の愉悦が勝り、軽快な足取りで自宅へ向かった。
部屋に入り、畳の上に横になると、扇風機の羽音に合わせ、健斗の寝息が聞こえてきた。照明の紐を引き、豆電球の明かりを落とした。
部屋が真っ暗になった。
続く。
長編小説です。
花子出版 倉岡
文豪方の残された名著を汚さぬよう精進します。