雲の影を追いかけて 第7章「前半」全14章
第7章「前半」
「あー、もしもし。あ、受賞ですか。それは良かった。はい、はい、はい、では失礼します」
裕は終話ボタンを押した。同時に、盗み聞きするように耳を澄ました編集者たちが、大声で叫びながら感情を四散させる。何事かと驚く一般客は、目を丸くして振り向く。裕は一般客へ小さくお辞儀をし、平静を装い席へ座った。
「少し時間があるので、ご家族や友人に連絡して良いですよ」
編集者の杉下は涙を浮かべた。裕は携帯電話を取り出し、液晶に些細な吟味を浮かべ、電話ではなくメールを書くことにした。
『芥川賞を受賞しました。これまで、お世話になりました』
祥子と田中、両親と兄へ同じ文を送り、携帯電話を鞄に放り込んだ。
「あれ、電話をしなくて良いのですか? こんな素晴らしい賞を自慢しても良いじゃありませんか」
杉下は心配そうに目を細める。
「はい、大丈夫です。では会場に行きましょうか」
裕と編集者たちはお店を出て、群れとなって会場へ向かった。
記者会見を控える裕は、薄氷の上を歩くような心持だった。商業的成功のために話題性を持ち、人口に膾炙する小説家になりたいと思う反面、祥子の言った通り、元の自分とは掛け離れてしまうのではないだろうか。恐怖の影を、ひしひしと背中で感じる。『有名になれば若い女と再婚も出来る』。田中が口にした荒唐無稽な言葉を想起した。この言葉が自縄自縛の萌芽なのだろうか。敬愛してきた文豪と同じように文学を愛し、崇高な文章を執筆したい。しかし、文学への志が消え、自堕落に溺れ、美と反することを選択することになるのだろうか。
編集者たちの期待が大きく膨らみ、流れる時間を、蛇口から滴る水滴を止めるように、静止させることは不可能だ。祥子の涙、祥子の存在が、未来への足枷になっているのだろうか。いや、祥子を愛していることは事実の筈だ。
「やれやれ」
溜息を吐くと、思考の迷路に没入し、出口を見失いつつあった。しかし、両足は会場へ向かっている。右足の踵を地面に着け、指先を地面に着け、地面を蹴る。次は左足。連続的に動く自分の足を眺めていると、能動的ではなく受動的に、それは見えない糸で動かされているような感覚だった。不安はないが、どこか覚束ない。
受賞会見の会場へ入り、会見の順番を待った。
特設されたステージに立つと、カメラの放つフラッシュが花火のように裕の全身へ放たれた。勿論火傷することはないが、決して心地良いものでもない。初めての体験で表情が強張り、心臓が早鐘を打つ。先程の陥った思考の迷路は、一時休園模様だ。
「受賞されました、感想を一言お願い致します」
進行役の男性が裕を見る。進行役の視線に合わせ、裕を囲む多くの記者も視線を注ぐ。
「嬉しいです。僕の小説を読んでくださり、そして評価して頂き、ありがとうございます」
裕は冷静だった。
「では、質問のある方、挙手をお願い致します」
記者たちの中の数名が挙手をする。進行役は会場を眺望し、手を掲げた。
「では、そこの女性の方」
女性記者にマイクが回る。裕の目線も、マイクと同じように女性記者へ向かう。
「〇〇新聞社の工藤です。本日は芥川賞の受賞、誠におめでとうございます。今回の受賞をどなたかにお伝えされましたか?」
記者がマイクを口元から外した。裕は直ぐに口を開いた。
「はい。一月程前に結婚した三十歳上の奥さんと、自分の家族、職場の友人へ伝えました」
裕が口を閉じると、会場は騒めきだした。キーボードを叩いて詰まらなそうな表情を作っていた記者たちが、急に目を光らせ始めた。進行役は動揺しつつ、職務を全うするために「お静かにお願いします」と言い放った。
「三十歳上の奥さんがいらっしゃるのですか?」
記者が質問を続ける。
「はい。その通りです。恋愛の末、結婚しました。現在は妻の実家にて一緒に暮らしています」
「お子さんはいらっしゃいますか?」
「いえ、居ません。僕の妻が、子供を産むことはないでしょう。年齢的にも」
会場の騒めきは止まらない。
「歳上の奥さんは、何か仰ってましたか?」
「メールで伝えましたので、妻や家族からの返事を見ていません。すみません」
女性記者がマイクのスイッチを切った。
「では、他に質問がある方?」
進行役がアナウンスすると、会場内の殆どの記者が挙手をした。それは、多感な子供たちが機先を制して手を挙げる、授業参観のようだった。すると、裕の瞳に、俳優と女優の『年の差婚』の新聞記事が浮かび上がった。口にした『年の差婚』の言葉によって、俳優たちと同じように報道されるのだろうか。もう後戻りは出来ない。裕は奥歯を食いしばった。奥歯は、軋む音を奏でた。
「芥川賞の受賞おめでとうございます。奥様の姿は、執筆の際に何かしらの影響がありましたでしょうか?また、主人公の彼女は、奥様がモチーフでしょうか?」
「受賞おめでとうございます。これまで影響を受けた小説家は、どなたでしょうか? そして、『年の差婚』について、岸田裕先生の親御さんはどのように仰ってましたか?」
「この度は、受賞おめでとうございます。奥様は『月の雫』について、何か感想は述べられましたか?」
様々な質問が広い会場内を飛び交ったが、殆どの質問は祥子を掠める話題だ。裕は飛び交う質問を、玩具の銃で撃ち落とすように、一つ一つ丁寧に片付けていった。
長い長い、会見は終わりを告げ、取材された記事が新聞やテレビ、インターネットなどあらゆる媒体に乗り、世界へと放たれた。
裕と編集者たちが会場を出ると、街の景色は変わっていた。ビルが放つ明かりが眩しく、暗闇に淡い希望を与えていた。裕は眩しさに眼を細めた。
「裕さん、飲みに行きませんか? お祝いしましょ」
達成感と優越感に浸る杉下の目が、輝きを増した。
「いえ、今日は疲れたので帰ります。妻も待っていますからね」
「そうですか。残念です。では、編集者たちだけで行ってきますね。なんだか、主人公不在の変な集まりになる予感がしますが・・・。それにしても、びっくりしたなあ。裕さんが結婚していたなんて、初耳でしたよ」
「妻については、出会ってから流れるように結婚しましたので、事前にお伝え出来ずに、すみません」
「いえいえ。こちらは問題ありませんよ。明日の紙面や、テレビ、インターネットニュースを虜にするでしょうね。だって、芥川賞受賞作家のびっくり『年の差婚』ですもの」
「話題性が取れて良かったです。これで少しは、僕の名前が売れたと思いますね。書いた本が売れると良いなあ」
「そんな、少しどころではありませんよ。もう既に、書店やネットショッピングでは売り切れになって、増版決定ですよ。近年稀に見るヒット作へ、一気に駆け上がるのは間違いないでしょうね。それに、公演の依頼や、取材の依頼が殺到するでしょうね。忙しくなりますよ。裕さんは時の人になりますよ」
「はあ。あまり実感が出来ないところですが。でも、執筆は今後も続けたいと思いますので、お金が入るなら、尚良かった。時の人も消えゆくものです。だから、名前が消えないうちにしっかり稼いで、小説家としての土台を作りたいですね」
「新作を期待していますよ。裕さんの執筆人生は華々しいものです」
「こちらこそ、今後ともよろしくお願い致します」
「また、ご連絡しますね。では、失礼します」
裕と杉下は握手をし、別れた。杉下は編集者のグループに溶け込み、ネオンが輝く繁華街へ消えた。
携帯電話を開くと、身に覚えのないアドレスからのメールが複数届いていた。メールを開いて文面を眺め、読み返すのが億劫になり、携帯電話を鞄に戻した。
揺らめく電車に乗り、祥子が待つ家へと向かった。車窓から見える街が、流星のように流れ去っていった。
第7章「後半」へ続く。
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