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『義』  -吉田の危機- 長編小説



-吉田の危機-

 吉田はスーツを脱ぎ、白いパンツに着替え、リングに立つ準備を進めた。大輔は吉田の洗練された行動を、一心に眺める。今日は誰と戦うのだろうか。鍛え上がった吉田が、リング上で倒れることはあるのだろうか。

「行くぞ」

 吉田は声を出し、扉を開けてリングが設置された会場への廊下を歩いた。

 ロープに包まれるリングは、照明にて煌々と照らされていた。二人はリングサイドへと向かった。大輔は目を左右に動かし、著名人がいないかを逐一確認する。他言するわけではないが、地下施設に降り立った優越感を、自慰的に噛み締めたかった。ソファに座る観客は、前回より多く、異様な熱気に包まれていた。日本人だけでは無い。耳慣れない言語が揚々と飛び交っている。金髪の西洋人や、クーフィーヤを頭に被ったアラブ系の人もいる。古今東西、世界中から吉田の格闘観戦、更には賭博の為にやってきたのだろうか。

 吉田はリングサイドの椅子へ腰掛けた。

「吉田さん、頑張って下さい」

 大輔は言った。絞り出す言葉が稚拙で情けなかったが、技術的助言が出来ない以上は仕方がない。吉田はグローブをはめ、腕を組み、瞼を閉じていた。

 レフリーがリングに上がると、会場の熱気が数度上昇する。吉田は瞼を開けた。

「青コーナー 吉田雅彦」

 吉田がリングに上がった。

「赤コーナー ジャクソン」

 琥珀色の瞳、白髪に近い金色の髪の毛、二メートルを超える体躯の白人の男が、赤コーナーからリングに上がってきた。吉田との身長差は明瞭だ。大輔は、自らの拳を交えるわけではないが、激しい恐怖に駆られていた。こんな巨人を吉田は倒せるのだろうか。まさか、負けてしまうのではないだろうか。

 大輔の逼迫する感情を、更に掻き立てるように、ゴングの鐘が刺々しく鳴り響いた。吉田とジャクソンの試合が始まってしまった。

 ジャクソンが吉田に一気に駆け寄り、大振りのパンチを放つ。大振りだが、スピードが早く、更に連打が止まらない。一気に攻め落とすのだろう。吉田は両手でガードしつつ、ローキックで応戦するも、巨木のようなジャクソンの脚が揺るぎなく、次第に後方に下がり、いつしかコーナーに追い詰められていた。一瞬の出来事だった。大輔は、リングサイドへ攻め込まれる吉田の背中を、閉じようとする瞼を抉じ開けて見る。これもセコンドどの宿命かもしれない。ジャクソンの攻めに合わせて、会場もお祭りのように盛り上がる。ワイングラスが割れる音も聞こえてきた。

 ジャクソン側のセコンドが、リングマットを掌で叩きながら、大声で奇声を発している。何語だろうか。顔付きからすると、恐らく英語だろう。速過ぎて、大輔の耳では理解出来ない。いや、何語でも構わない。目の前の吉田が、ジャクソンに追い詰められているのが現状だ。

 何か、自分に出来ることはないだろうか。格闘技の勉強をせずに、吉田に会いたい一心のみでリングサイドに来たことを後悔する。

「吉田さん」

 無我夢中で名前を叫んだ。声がジャクソン側セコンドの奇声を凌駕し、リングを揺れ動かす。

 すると、接近していたジャクソンは、両手で吉田の後頭部を掴み、膝蹴りを放つ。膝蹴りを待っていた吉田は、ジャクソンの顎へ右フックを合わせた。骨がずれる音と共に、ジャクソンの金髪が突風を受けたように宙に乱雑な模様を描き、巨大なジャクソンの肉体が揺らめいた。

 リングを取り巻く会場の空気が霧消し、真空となり、音が消えた。連綿と続く、過去から未来へと流れる時が切断されたのだ。

 大輔は勝利を予感した。リングを俯瞰する観客たちも、吉田の勝利を予感した。吉田の右フックは、見惚れるほどの芸術的な一打だった。次の瞬間、切断された時間が繋がれ、地鳴りのような歓声が会場から上がった。ジャクソンのセコンドは、絶えずリングマットを叩き、ジャクソンに檄を飛ばす。まるで、不躾の赤子のようだ。

 しかし、ジャクソンは倒れなかった。倒れるどころか、後方に掛かった体重を戻し、吉田の脇の下から背中へと手を回し、密着した。不利なジャクソンが一変し、完全に有利な態勢に持ち込んだ。吉田は身動きが取れず、ジャクソンの脇腹に力無いパンチを当てながら、踠いていた。

 ジャクソンは吉田を持ち上げ、肉体を俊敏に動かし、大外刈りを仕掛けた。再び会場が湧き上がり、吉田の肉体は弧を描くように宙を舞った。筋肉の凹凸が、照明に照らされ、浮き彫りにされた。

 大輔は息を飲んで見入った。何もサポート出来ない、リングサイドに立つ第三者だ。第三者だけに、美術館に展示されたダビデ像を見入る観覧者ように、恍惚を生み出す麻酔を下顎に打ち込み、口を緩めて見入るしかなかった。口が開いていた。カメラで撮影してみると馬鹿面だろう。だが、それほどに心が奪取されてしまった。威厳と厳格を心身に刻んでいる吉田が崩されてしまうのではないか。追い掛けていた、吉田はどこに行ってしまうのだろうか。リングマットに沈み、リングマットに溶け込んでしまうのだろうか。

 声を出そうと腹に力を入れるも、声が出ない。リング上に描かれている、格闘家が生み出す造化の妙をただ眺めるしかなかった。

 吉田の肉体がリングマットに沈み、ジャクソンが吉田へ馬乗りになった。吉田は両腕で顔面をガードする。ジャクソンは吉田の顔に向けて、砲弾を落とすように打撃を食らわす。吉田の顔が歪み始めた。無表情を貫いていた吉田の顔が歪み始めたのだ。

 大輔は目を逸らし、俯きながら床を眺めた。吉田の歪む表情を見ると、恐怖に襲われた。感情の起伏がない吉田が、苦悶しているのだ。苦楽や悲喜といった言葉がある通り、感情は表裏一体のはずだ。楽しさ故に、苦しみが顔を出す。では吉田は、知らない世界で遊楽に耽っているのだろうか。いや、そんなことはないだろう。あってはならない。

「吉田さん」

 再び、床へ向かって名前を叫んだ。


続く。



長編小説です。

花子出版   倉岡



文豪方の残された名著を汚さぬよう精進します。