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賢者か無知か。 幸せの定義

こんにちは。

人の幸せは多種多様であります。

先日、アイドル好きな人達の話を聞くことがありました。
その人達は多額のお金を、アイドルにかけているとのことです。そして、「アイドルには彼氏がいない」と豪語されてました。

アイドルにはアイドルの人生があり、アイドルの幸せがありますので、仕事柄『彼氏がいない』と偽り、仕事をしているかも知れません。そればかりは、他人が預かり知るすべはないでしょう。

もし、アイドルに彼氏がいると仮定するなら、ファンは激減するかも知れません。多額をかけてきたファンは、意気消沈するかも知れません。現に、某俳優の結婚報道の翌日には、欠勤者が増えたと報道されていました。

アイドルや俳優に問わず、万事に言えます。例えば、高級料理を食べに行って自分の舌に合わなければ酷評する、など。

幸せの定義は難しい・・・。


さて、そこで僕は考えていたのですが、二つの生き方以外は、幸せになるのは中々難しいのではないかと。

一つ目は、哲学に長けてあらゆる現象に感情を動かさないようになる。
二つ目は、凡ゆる物事に気が付かない無知になる。

前者は、例えば辛い事象が発生したとしても、達観して受け止め、それを自力でその現象を乗り越えることができます。
後者は、辛い現象が発生したとしても、そのことに気がつかない。表現が難儀ですが、知るが故に苦しむことがあります。前述した、俳優の結婚報道がその一つです。結婚報道を知ってしまったが為に、心が病み、病欠してしまうのであります。知らなければ、幸福のまま生涯を終えることができるでしょう。つまりは、物事に無知になる。

この定義が正しいならば、賢者にも、無知にもなれない中途半端な中間層は、なかなか幸福を得難いのではないか??

このような定義を考えました。

『人生、字を識るは憂患の始め』という古諺があります。
意味としては、『学問で知恵あつくと、苦悩や心配などをするようになり、学がない方が気楽だということ』です。

なるほど!! 賢者になったとしても、苦悩や心配は尽きないものですね。よって、学がなく無知な方が人生は気楽で幸福なのかも知れません。生まれて知的好奇心が湧いてきて時点で、苦悩や心配はある。避けられない人間の性なのでしょう。

真偽はいかほどに。



花子出版   倉岡 剛

文豪方の残された名著を汚さぬよう精進します。