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『義』  -山岡家にて (前半)- 長編小説



山岡家にて (前半)

 幸子の家は、閑静な住宅街の一角に佇む、庭付きの洋館だ。大輔の実家と比較すると、幸子の家は貴族が住む邸宅のような佇まいだ。大輔は吹き抜けの玄関を見上げて、息を飲む。高い天井からシャンデリアが釣られ、淡い光を放っていた。前方の壁には向日葵畑の油絵が掲げられ、床に置かれた花瓶には向日葵が活けてある。

「向日葵がお好きなのですね」

  大輔は、スリッパを用意する幸子へ言った。

「ええ。向日葵は息子が大好きな花ですのよ。夏になりますと、必ず活けます。向日葵を活けるだけで、空間が広々と生まれ変わるのです。不思議な花ですこと。宜しければ、少し、お持ち帰りになりますか?」

 幸子は向日葵の葉を指先で触り、笑みを浮かべる。大輔は首を横に振り、幸子の用意したスリッパを履いた。

 二人は石造りの廊下を奥へ進む。左右には木製扉が、等間隔で並んでいた。

 長い廊下と抜けると、庭が見渡せる客間に着いた。

「ソファにお座りになっていて下さい。お飲物と、息子のアルバムを持ってきますね」

「ありがとうございます」

 幸子は客間を去った。大輔は革張りのソファに座り、遠くから聞こえてくるクラシック音楽に耳を慣らしながら、ガラスから覗く庭を眺めた。芝は日差しを浴び青々と広がり、中央の噴水の生む水飛沫が、熱された空気を清涼へと彩る。噴水の奥の芝が切れた先には、五分咲きの向日葵畑が広がっていた。

「お待たせしました。大輔さんは、ハーブティーはお好きですか?」

 幸子はトレイをソファ前のテーブルに置いた。トレイには、湯気の上がるティーポットとクッキーが乗っていた。

「ええ、好きです」

 大輔は偽った。ハーブティなど、これまで飲んだことがない。実家では急須で淹れた緑茶を、大学ではコンビニに売っている紙パックのお茶ばかりを飲んでいた。上京後、何度こう言った偽りを述べたのだろうか、と思うと田舎者の自分が憎くなった。

「お口に合うと良いのですが。自家製の無農薬ハーブティになります。私が、この庭で育てています」

 幸子は透明のティカップにハーブティを注ぎ、大輔の前に置いた。大輔は会釈した。幸子は自分のカップにもティを注ぎ、ソファに座った。

「頂きましょう」

 二人はハーブティを飲んだ。不思議な味に困惑しつつ、大輔は二口目を飲んだ。

「美味しいです」

大輔は再び偽り、美味しいのか、不味いのか分からない、自分の貧相な舌が悲しくなった。

「あ、そうそう。アルバムを取って参りますね。クッキーも召し上がって下さいね」

 幸子は立ち上がり、客間を去った。大輔はクッキーを食べながら、幸子を待った。

 幸子は三冊のアルバム本を抱えて、客間に戻ってきた。テーブルに三冊の古色を帯びたアルバムが並ぶ。分厚く、まるで洋書のようだ。

「一人息子でしたの」

 幸子はアルバムを開いた。大輔は身を乗り出し、アルバムに写る少年を見た。

「名前は、元です。元はね、私譲りで、生れつき華奢な子でした。身長が、小さく、目がクリクリしていて、よく女の子と間違えられていましたの」

 写真には幸子と少年が、向日葵畑を背景にして写っていた。それぞれの表情は、背景の向日葵を掻き消すほどの笑顔が溢れている。

「この男の子が元くんで、隣の男性は旦那様でしょうか?」

「ええ。その通りです。この庭で撮影しました。遠い昔の、懐かしい思い出です」

 幸子は乾いた指先でページ捲ってゆく。まるで、深い眠りについた思い出を回想するために、粉雪のように堆積する瑣末な記憶を丁寧に剥がしているような繊細な手つきだ。指先の震えと、まばたきの度に濃くなる涙が、幸子の物寂しさを語っていた。

「笑顔が素敵ですね」

「ありがとうございます。元気一杯の息子でしたのよ。勉強しなさい、と注意しても、庭を駆け回ったり、庭の噴出で泳いだりとね。毎日、毎日、擦り傷を作って来ましてねえ。まあ、子供ってそういう生き物なのでしょう。これは幼稚園の写真です」

 幸子は写真を指差した。元の横に、ある男の子が写っていた。その男の子は何度も出没する。

「元くんは、この男の子と仲良しだったのでしょうか? どの写真も、隣に写っていますよ」

 大輔は元の隣に写っていた男の子を指差した。幸子はアルバムを持ち、目元に近付けた。

「懐かしい。ええっと、彼は・・・、そう、雅彦くん。吉田雅彦くんです。ほんとうに懐かしい。雅彦くんはこの家にも頻繁に遊びに来てくれて、元と遊んでくれましたの。双子のように仲良くってねえ。まあ、顔付きは真逆でしたけれどね。雅彦くんは、男らしくって、逞しい顔付き。元は、弱々しい顔付きでした。笑っちゃいます」

「吉田雅彦・・・」

 大輔は呟き、顎に指先で撫でながら思慮する。男の子は、地下施設のリングで戦う吉田だろうか。西新宿の高層マンションに住む吉田だろうか。毎日山岡家の墓参りをする吉田だろうか。顔付きが、どことなく似ている。いや、間違いなく屈強な肉体を持つ吉田と同一人物だ。

「あら、大輔さんは、吉田さんとお知り合いでしょか?」

 幸子は物珍しそうな目差しで大輔を見た。大輔は、吉田との繋がりを打ち明けたくなり、口を開いた。だが、すぐに出掛かった声を飲み込み、口を閉ざした。他言すると、地下施設の契約違反になり、命がない。仕方なくハーブティを飲み込み、心を落ち着かせた。

「いえ、知り合いではありません。名前を聞いたことがあったような、なかったような」

「そうですか。こちらはですね、中学生の頃の写真です。元も雅彦くんも、大きくなっていますでしょ」

 元の隣には、成長した吉田が立っていた。大人の顔つきだ。それは間違いなく、あの吉田だった。

 制服姿の元の写真は数ページ続いたが、唐突に写真が消え、空白がアルバムの最終ページまで続いていた。何が起きたのだろうか。

「あの。途切れてしまっていますが」

 大輔は幸子を見た。

「ええ。実は、息子は中学一年生で亡くなりました。ですので、これ以降の写真は御座いませんの」

「辛い過去の思い出させてしまいまして、申し訳ありません」

「いえいえ、構いませんよ。もう遠い昔の話ですから、感情の整理も出来ているつもりです。お話することに対して、抵抗は御座いません。
 元はですね、自分の部屋で首を吊って、自殺をしました。遺書等はありませんでしたが、同級生の話から察するに虐めにあっていたようです。当時、私も主人も仕事が忙しく、構ってあげることが、殆ど出来ませんでした。ですので、元の心の変化に気付くことがありませんでした。親として、本当に情けないものですね。
 自殺したあの日は、今日と同じような初夏の陽気でしたわ。向日葵も咲き乱れていまして、雲の峰が天に向けてぐんぐん成長していました。朝は、いつも通りに起き、朝食を済まして仕事へ行こうとすると、顔面の蒼白になった家政婦さんが、駆け寄って来ました。嫌な予感がしまして、仕事の鞄を投げ捨てて元の部屋へ駆け込みましたが、元の身体はまるで粘土のようになっておりました」

「自殺ですか・・・」

 大輔は噛みしめるように言った。

「ええ、自殺です。当時は悲しみに押しつぶされていましたが、月日が惨劇を薄めてゆきました。向日葵が朽ちて土に帰ってゆくように、元の身体は多磨霊園に帰ってゆきました。今は、天国にある無限の広場で駆け回っていることでしょうね。泥んこになりながら・・・」

 大輔はアルバムを閉じ、テーブルの隅に重ねて置いた。幸子は目尻に浮かんだ涙の雫を、白いハンカチで拭いている。上品な仕草だ。

「きっと、いえ、絶対に楽しく過ごされていますよ。天国も、向日葵が満開だと良いですねえ。ここのお庭のように」

 大輔は庭を眺めながら、ハーブティを口にした。春風が鼻腔を通るようなスッキリした味わいが広がり、自身の味覚の変化を堪能しつつ、幸子への同情心を深めてゆく。

「大輔さんは、心の綺麗なお方ですね。良き友に巡り合い、素晴らしい人生を歩むことが出来るでしょう。きっと」

「ありがとうございます。精進します」 

 大輔は『精進します』と述べたももの、何を、どのように精進すれば良いのか、皆目見当がつかない。しかし、幸子を安心させるために、そう答えた。すると、幸子の涙が止まり、柔和な笑顔が溢れた。大輔は、選んだ言葉が正しかった、と思い笑顔を返す。

 ポットのハーブティが無くなりかけ、幸子は客間を離れた。大輔は隅に置いたアルバムを開き、吉田を探した。吉田は多くのページに出没し、まるで吉田の成長アルバムのようにも見え始めた。幼稚園、小学校、中学校の一年、成長する吉田の顔付きや体躯は、現在の吉田のように研ぎ澄まされた美の予兆が見受けられる。ダイヤモンドの原石とでも、例えようか。吉田と元の間には一体何があったのだろうか、と詮索欲求が更に膨らんでゆく。

「お飲みになりますか?」

「頂きます。ハーブティ、とても美味しいですね」

 二人はティを飲みながら、歳の隔てなく会話した。大輔は気さくな幸子へ、専攻学問について、アルバイトを辞めたこと、彼女と別れたことなどを、包みなく話した。幸子は時折微笑み、時折憐れみの表情を作り、決して怪訝な顔を作ることなく、客間に流れるクラシック音楽に重ねて大輔の話を聞いた。大輔が話を終えると、交代で幸子が話しを始めた。仕事の話、趣味の話を順序よく並べてゆく。大輔は幸子の上品な言葉尻に感銘を受けながら、聞き入った。

 庭の向日葵は、天に向けて悠揚と首を振り、初夏の夕暮れを忘れさせた。二人の会話が、穏やかに弾んでいた。


続く。

長編小説です。

花子出版   倉岡



文豪方の残された名著を汚さぬよう精進します。