雲の影を追いかけて 第6章 全14章
第6章
幾何学模様の木目が目立つ分厚い天板には、随所に傷や凹みが目立つ。和夫の肘や腕などを献身的に支え続け、和夫の馳せる思いをニスのように塗り込んだ机が、原稿を進める裕の仕事場となった。引っ越しの際に破棄した味気ない机より、不思議と執筆が捗っている。
祥子の実家に住み始め十日程経った。以前住んでいたアパートは、家電を全て処分し、大家へ鍵を返した。部屋に搬入した荷物は、祥子の手伝いもあり、綺麗さっぱりと本棚や押入れに収まった。
祥子はパートの日数と時間を減らした。和夫の介護に手が掛かるため仕方がない。そして何より、還暦間際で体力の衰えを痛感していた。二人は話し合い、裕の牛丼屋での給料や本の印税などを考慮し、祥子のパート時間を決めた。裕は、執筆に専念出来る環境を提供してくれる祥子に対し、深く感謝した。
蛍光灯の下、キーボードを叩いていた。
「裕君。お茶淹れようか?」
祥子が部屋を静かに開け、中を覗き込む。集中していた裕は、祥子の声でタイピングの手を止め、振り返る。祥子は薄黄色い花柄の寝巻きを着ていた。
「いや、今日の執筆は終わりにするよ。ありがとう。今は何時かな?」
「もう、二十二時。お疲れ様、今日も頑張ってたわね。お布団を敷いておくわ」
「うん。さて、原稿を保存して、歯を磨いたら行くよ」
祥子は扉をゆっくりと閉じた。裕は執筆中の原稿を保存し、パソコンの電源を落とした。椅子から立ち上がり、窓を閉めようと手を伸ばした。すると外から赤ちゃんの泣き声が聞こえてきたため、手を止めて耳を傾ける。赤ちゃんをあやす、母親の声も生々しく聞こえた。
暫くし、赤ちゃんの泣き声が止まり、裕は何事もなかったように窓を閉めた。
祥子の敷いた布団に仰向けになり、読書灯を頼りに小説を眺める。裕の仕事部屋の向かいが、二人の寝室となった。
「裕君、明日は待ちに待った、芥川賞の発表の日ね」
祥子は裕へ顔を向ける。祥子の視線を感じた裕は、手に持っていた小説を閉じ、枕元に置いた。無音の中、二人は見つめ合う。読書灯が放つ淡い光が、祥子の顔を首筋からなぞるように照らした。
「やっとだね。まあ、結果については神のみぞ知るって事かな。受賞出来れば、執筆にもっと専念出来ると思う。お金が入れば、祥子さんも楽出来るよと思うよ」
「ありがとう。でも、私はお金なんかより、優しい裕君と一緒なら、他に何も要らない。この生活が幸せだから」
「そうだね。僕も同じ気持ちさ」
「お父さんも、期待しているみたいよ。今日も『月の雫』を読み返していたわ。もう何度読んだのかしら」
「気にいってくれて良かった・・・。ねえ、もし受賞することになったら、会見であれこれ質問されると思うんだ。祥子さんのことを話しても構わない? 例えば、『年の差婚』の話とか」
「勿論よ。妻だから」
「ありがとう」
裕は祥子の布団へ入り込み、祥子の身体に抱きついた。羞恥する祥子の筋肉が一瞬強張ったが、氷を溶かすよに裕の指先に身体を委ねた。
祥子の額に口付けをした。
「明かりを消して。皺が目立って恥ずかしいの」
祥子の声に寂寥が篭る。裕は祥子の額から唇を離し、瞼を閉じる祥子の顔を見た。読書灯の灯りが、祥子の目尻などの皺を明瞭に浮かばせた。読書灯の灯りを落とし、祥子の唇に口づけをした。
「ありがとう」
裕の指先が祥子の寝巻きを剥がし、文字を描くように肉体をなぞってゆく。祥子の息が少しずつ荒くなり始めた。荒れる息に駆られ、裕の性欲が高鳴るももの、反して意識の沈着さも高鳴る。世間の話題性を掴むため『年の差婚』を選んだという、自己の醜い影が大きく膨らみ、祥子の裸体を弄る指先の感覚を激しく蝕むのだ。
その刹那、祥子の身体を触ることで得れる快楽と、不穏な影に蝕まれながら失う苦心とを比較してみた。夜空に輝く星の数を、目視で数えるような難解なことだと頭では理解している。しかし、思考が止まらない。朧げな美点と汚点が混じり合い、裸体の二人の身体が重なってゆく。祥子の口から漏れる息は、益々荒くなっていった。
深い夜が終わり、朝を迎えた。裕が階段を降りてリビングのソファにかけると、無地のエプロンを着た祥子がキッチンから顔を出した。
「おはよう。よく眠れたかな?」
「おはよう、祥子さん。今日も早いね。ありがとう、ぐっすり眠れたよ」
「良かった。今日は、お昼過ぎに自宅を出るのでしょ?」
「うん。編集者と一緒に会場付近でお茶をしながら、受賞の合否を待つことになっているからね。昼ご飯を食べたら自宅を出ようと思う」
「分かった。今日はね、昨日買った鯛を焼くわね。め・で・た・い」
「ありがとう。ねえ、和夫さんは起きているかな?」
「うん、もう起きているわ。とても元気そうだった。ここ数日では一番元気じゃないかな。お父さんに、お茶持っていく?」
「そうするよ」
裕はお茶のパックを手に取り、和夫の部屋の扉をゆっくりと開けた。
和夫はベッドを起こし、朝陽を背中に受けて本を読んでいた。『月の雫』だった。裕の姿を確認し、本のページをゆっくりと閉じた。
「おはようございます。体調は如何ですか?」
裕はお茶のパックにストローを刺し、和夫の手にお茶を渡す。和夫の細く冷たい指先に触れた。
「おはよう。今日は、まあまあかな。昨日、お医者さんから薬を注射してもらったから元気なのだろう。でも長くはないだろう」
和夫は静かに言った。和夫の憔悴が覆う肉体へ、裕は言葉が見つからなかった。和夫の死期の足音を、裕もそれとなしに気が付いた。瞳に力がなく虚ろになっていた。主治医から入院を勧められたが、和夫の意向で自宅療養をしていた。
「今日は芥川賞の選考日じゃなかったかな?」
和夫はお茶のパックをテーブルに置き、本を開いた。
「はい。今日が発表日です。午後から出掛けてきます」
「そうか。楽しみじゃな」
「受賞出来ると良いのですが、こればかりは・・・」
「まあ、大丈夫だろう。なあ裕君、一つだけ教えて欲しいことがある。『月の雫』の最後の結末で、何故、主人公の彼女は自ら命を絶つ選択を選んだのだろうか? もし、差し支えなければ、その意図を教えて欲しい」
「最後の大海原を背にした断崖絶壁での話でしょうか?」
「その通り」
「非常に残酷な場面ですが、小説内の彼女がそれを望んだからです。僕の場合、物語の最中で当初考えていた構成と、大幅にズレることがあります。『月の雫』もその一つの作品です。それが、結果的に良いこともあれば、脈絡がうやむやになることもあります。『月の雫』の結末は、残酷でしたが、作品としては良い流れになったように思います」
「そうか。興味深いなあ、ありがとう。何か意図的にそうしたのかと思ったよ。何れにしても、大作だったよ。来世があるとしたら、わしも物語を書いてみたくなったよ」
「こちらこそ、愛読頂きありがとうございます」
「そして、祥子と結婚してくれて、ありがとう」
「いえいえ、拙い小説家ではありますが、祥子さんと楽しく過ごしています。結果が分かりましたら、報告しますね」
「ああ、ありがとう。ワシは少し眠ることにするよ。ベッドを寝かせて欲しい」
裕はベッドを寝かせ、和夫へ風を送る扇風機の首を、壁側へ向けた。和夫は窓から入る風を頬で感じながら、瞼をそっと閉じた。裕は起こさぬように和夫の手を握り、思いを馳せる。雪原に佇む古木の枝に似た指先で、多くの物を触り、本のページを捲り、数多くの人と触れ合ってきたのだろう。和夫が今生見てきた景色の断片が、瞼の裏側へ空想的に浮かんできた。海の音が聞こえる。山の音が聞こえる。都会の喧騒が聞こえる。電車の走行音が聞こえる。柄杓から滴る、雫の音が聞こえる。
和夫の一部であり、これから一部ではなくなろうとしている指先が、儚いともし火を奏でていた。
和夫の寝息が聞こえ、裕は握った手を離した。そして和夫のお腹にタオルケットを掛け、部屋を出てリビングのソファに座った。
「ねえ、鯛が焼けたけど、少し早いけれどお昼ご飯にしない?」
祥子が顔を出した。
「そうしよう。何か手伝おうか?」
「大丈夫よ。ソファーに座ってて」
祥子はキッチンから料理を順番に運び、テーブルに並べた。掌位の鯛の塩焼き、白米や味噌汁、お漬物や煮物。祥子は手の込んだ料理を毎日作った。
「頂きます。毎日、料理作ってくれてありがとう。僕の得意料理も今度作ってあげるね」
「嬉しい。牛丼かしら?」
「そうだね。牛丼は大得意だ。きっと美味しい牛丼を、作ってあげるよ」
「ありがとう。ねえ、父さんと長く話していたけれど、何を話していたの?」
「本の話だよ。『月の雫』を褒めてくれた。また、新作が書きあがったら和夫さんに読んで貰いたいなあ」
「父さんの楽しい時間を作ってくれてありがとう。父さんも、裕君に会えて幸せだと思う。たくさんの小説を書き上げてね。大変だと思うけれど、応援しているわ」
「ありがとう」
二人はテーブルに並ぶ料理を食べながら、いくつかの言葉を交わした。部屋には鯛の香りが広がっていた。
食事を終え、テーブルの食器を片付けた。二人掛けのソファーにくっ付いて座り、お互いの手の指を絡め合った。
「ねえ。今日の芥川賞受賞会見の時、私と結婚していることを言うの?」
「そうだね。もし聞かれたら、恐らく公言すると思うよ。隠す必要もないからね。祥子さんは、気になる?」
「うん。でも・・・」
祥子は裕の手を強く握った。祥子の細く白い手の甲に、青白い血管が浮かび上がる。裕は祥子の手の甲を指先で摩った。
「裕君の今までの才能や努力の結果が、芥川賞の最終選考という大舞台に選ばれたのは、この小さな頭では分かっているの。そして、私が抱く感情なんて裕君からしたら、そうねえ、本棚に溜まった埃くらいかしら。でも、『年の差婚』を公言することで、何か大きな変化が起きそうで怖くなるの。それが良いか、悪いかは、私には分からない。だから『止めて』っていいたい訳じゃないのよ。それは分かって欲しいの」
「祥子さん・・・」
裕は呟いた。口が開いたが、声は出ていなかった。
「出会って一ヶ月未満。若くて有望な男性と結婚し、一緒に住んでいる。こんな還暦間近の資産もない、取り柄もない、容姿も醜い、只のおばさんが贅沢を言うな、と思うだろうけどね。でも、私は裕君を愛している」
「ありがとう。祥子さんの気持ちは分かったよ。後は僕が、決めることだね」
「うん。ありがとう。あ、こんな時間だわ」
涙目の祥子は立ち上がった、顔を隠すようにキッチンへと消えた。裕は部屋に移動し、綺麗目な服を選び、袖を通す。鞄に読みかけの本を入れ、玄関に向かった。
「祥子さん、行ってくるよ」
「うん。裕君、頑張ってきてね」
祥子は笑顔を作ったが、涙の筋が頬に浮かび、光の筋となった。裕は祥子の目を直視する事が出来ずに扉を閉めた。
空は青く、高かった。駅まで歩き、電車に乗って編集者との待ち合わせ場所へ向かった。歩道、駅の階段、電車の中、多くの人と擦れ違ったが、全て見知らぬ人だった。
第7章「前半」へ続く。
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