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被災地を訪れて【自身の震災を振り返る】


今日は気仙沼・陸前高田にやってきました。

ご存知の通り
東北大震災を代表する被災地の一つです。

私は今まで一度も被災地を訪れたことがなかったので今回が初めての訪問でした。

今日は震災から11年経った今の気仙沼の風景と
当時私自身が、被災したエピソードについて
振り返ってみたいと思います。


1、11年後の被災地

山を抜け、海岸に向かっていけば
平たくひらけた大地が見えます。

震災前には建物が多く混在していた場所。
初めて訪れた地ですが跡形もなく綺麗に開けた大地は悲しみを乗り越えたどこか強さを感じました。


そして、まず行ったのは有名な
「一本松」 

気仙沼の一本松

津波の荒波の中、7万本の松が流されていく中
たった一本の松だけが残ったそうです。
当時たくさんの人に希望を与えたのは有名な話ですよね。

今はレプリカになっていますが
コンクリートも流された津波の中、
一本残った「一本松」には
意地でも流されまい!という断固とした
意志さえ感じます。

そして当時の悲惨な状況を
リアルに残すため、
建物をそのままに残している箇所もあります。

建物でみると改めて
津波の威力をまざまざと感じさせられますね。

そして震災時、
津波に流されてしまった「道の駅」

震災前の道の駅


今では綺麗にリニューアルされ、
海岸から続く真っ白い一本の道が
道の駅へと繋がっています。
この真っ白い一本の道が、犠牲になった方々を天国にまっすぐ導いているようにも見えました。

堤防の上から見た今の道の駅
献花

こうやって月日が流れ、
当時の記憶も少しずつ薄れていく中
現地を訪れることで、たくさんの命が奪われ涙したことを改めて思い出させられます。


そしてふと、
私自身の被災体験も蘇ってきました。

実は私も当時被災体験をしています。

そこで

ここからは当時の私の話をしたいと思います。

2、リクルートスーツでの被災


震災当日、私は就職活動で
茨城にある企業の会社説明会を受けていました。

説明会の真っ只中、
私たちを体験したことのない
大きな揺れが襲います。

「落ちいて、テーブルの下に隠れてください!」

そう言った入社まもないであろう
女性社員の声はかすかに震えていました。

私もかつて経験したことのない揺れに
初対面の方々の前で大いに取り乱したのを覚えています。笑

そして外に避難し、
説明会はもちろん中止。

私たち就活生はそのまま
見知らぬ土地で被災することになりました。

電波も無く、なすすべのない状況の中で
体力だけがある私たち就活生は、
とりあえず駅に向かって歩くことにします。

説明会会場から駅までは遠く、車で20分ほど。
初対面の学生同士で励まし合いながら2時間近くかけて駅へと向かいました。

途中のコンビニでは
陳列されていたものは全て床に放り出され、
一面商品の山。

それでも人々は慌てずに拾い上げて
きちんとお会計に並ぶ姿が印象的でした。

そしてやっとの思いで駅まで到着すると
電車は全てストップ。
街はどこからか漏れた油(ガソリン)の匂いが充満し、ビルの下には割れ落ちたガラスがところどころ。今考えてもとっても危険な状態です。


その時点で既に夕方を回っていたため
家に帰るのは早々に諦め、一緒にいた6人は
近くの中学校に避難することにしました。

初めての避難民です。

携帯も使えず状況もわからないまま、
リクルートスーツの初対面の就活生同士が身を寄せ合って中学校の教室で夜を迎えることになりました。

電気もつかず真っ暗な教室の中で
おばあちゃんがお孫さんを必死に探す声や、
丁寧に飼われていたであろうワンちゃんが1匹だけで不安そうに震えていたり、
そこに居る全員が恐怖を感じていたのを覚えています。


とても冷える日で
毛布の配給を取りに行こうとすると
「毛布の数が足りないので、お年寄りとお子様から優先的にお取りください」

なるほど。と
健康的な若者である私たちはそそくさと退散し
毛布を諦め、床にそのまま身を寄せ合い
眠りにつくことにしました。

しかしやはり眠れない。

するとどこからか段ボールと毛布が。

「寒いだろうから使ってね」

見知らぬ我々に大切な暖を分けてくださる方
が沢山いらっしゃったおかげで私たちはなんとか眠りにつくことが出来ました。


そして朝、目が覚めると
「岩手で津波が来たらしい」という声。

すると隣の女の子が
「私のおばあちゃん、気仙沼だ…」

夜を一緒に過ごしたうちの1人の学生の祖母の家が気仙沼にあるとのこと。
一同に不安が広がりました。

自分の家族の安否も分からない中、
みんな初めて会った学生の家族を心配しました。

幸い、その子はなんとか家族と連絡を取り合い、おばあさまの無事も確認出来、一安心。

一夜を共にし、励まし合い、支えあったことで
お互いの絆はとても大きくなっていました。

そしてその仲間も1人、また1人と家族とコンタクトを取り無事に帰っていきます。
嬉しい反面、親との連絡が取れない私は少し寂しい気持ちになりながらも時間だけが過ぎ、
また避難場所で夜を迎えることになってしまいました。

その日は前日宿泊した中学から少し離れた高校に移動し体育館で夜を過ごすことに。

教室よりは開けた開放的な空間。
快適ではあるものの、前日には6人いた仲間もその時には私ともう1人の2人だけになっていました。

眠ろうとすると
「毛布が足りていません。どなたか余分な毛布がある方は回収させてください」
との協力を促すアナウンスの声。

するとそれを聞いた人々が、
自身の毛布をゾロゾロと提供しに行きます。

自分も余裕が無い中でなぜこんなにもたくさんの人が赤の他人を想った行動が出来るのか??
と当時大学生だった私は驚きました。

「自分が寒くなっちゃうのに…」


当時の私はまだ他人のことまで気にかける余裕はなく、その光景をとても不思議に思っていた記憶があります。


そして心細い中、
その日も2人でリクルートスーツを着たまま
眠ることに。


そしてなんとかまた朝を迎えます。
携帯の充電はとっくに切れ、
いよいよ連絡をとる手段がありません。

そこで校内の公衆電話が無料で使えるとの噂を聞き行ってみることに。
するとそこは長蛇の列でした。


携帯の電波が繋がらない中、今まで見向きもされなかった公衆電話が人だかりになっています。


しばらく並んでやっと私の番が回ってきました。

けれども何度かかけても繋がりません。
気になるのは後ろに並ぶたくさんの人。
あまりの圧に
「もう、次かけて繋がらなかったら今日も諦めよう」

そう思って最後のダイヤルをした時、
はじめてコールが鳴り、
やっと母と連絡を取ることが出来ました。

「え!茨城に居たの?!」

と、茨城に来てたことを報告していなかったための第一声。笑
でもお互いの安否が確認でき、やっと一安心。

こうしてなんとか実家に
無事戻ることが出来ました。
(私の実家は茨城ですが、説明会会場までは車で2時間以上かかる場所でした)


3、まとめ

私の実家のある茨城は震災直後浸水し、
流された車が浮いている光景も目の当たりにしましたし、自転車や買ったばかりの車が流されてしまった友人もいました。

電柱は倒れたり、曲がっているところも。

もちろん岩手に比べると規模は小さいものの
浸水の被害もかなりあったエリアです。

当時生きていることがありがたく、
そして避難所で目の当たりにした「人と人との助け合い」がとても心に残りました。

あれから11年。
震災当時あれだけ不自由だった電気もガスも水道も、今は問題なく使えています。

そんなにありがたい状況だとしても
我々の悩みは絶えません。

たまにそんなふうに些細なことで悩む
自分を振り返って「悩み探し」をしているのかな?と思ってしまいます。


初めて行った震災の地をきっかけに
自身の被災体験を思い出し
日々に感謝して生きていきたいと
改めて感じさせられた1日でした。

これからいつまた大きな地震が来るかは
誰にも分かりません。

そんな日のために防災グッズの用意と
大事な人との待ち合わせ場所や連絡手段は
しっかり備えられると良いですね✨



それではまた!😊


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