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中卒だった頃の自分、今の自分⑨

こんにちは、ハナチェンコです。⑨です。このテーマでの投稿はこれで終わりです。マジ長い...。すみません。

9.ハナチェンコ、フリーターになる

福岡に帰る

ということで、2009年7月に、7年ちょいぶりに福岡に帰ってきました。大学を退職して半年は山口にいて、ちょくちょく福岡に行きながら、夏に完全に福岡に帰ってきました。

引越しの翌日、ものすごい台風と雨で、家の前が川のようになったのを思い出します。タッチの差で事なきを得ました。34歳の時(2001年)に

お嬢さんと結婚させてください

と、かつて慣れないスーツを着て言いに行った妻の実家に住むのはなんか妙な気持ちがしました。

そういえば質問箱で「馴れ初めを教えて」という要望?があったのでここで挟みます。

(続き 4)でこう書きました:

当時(1992年から1995年の大学2,3,4年の頃)私には行きつけの喫茶店があり、そこで同じように大学の同級生の女性と試験勉強をしていたら、遠くで「あの男、いっつもヘラヘラ女の子に勉強教えててバッカじゃないw」と私を冷ややかな目で見ていた、女性がいました。ちょくちょくこの喫茶店にやってきていた女性でした。今の妻です(涙)。なお当時僕は妻の存在には全く気づいていませんでした。

私の中学の同級生の女性が通っていた英会話学校に通っていたのが今の妻です。つまりその同級生繋がりで知り合いました。何度か一緒に遊びに行ったりもしました。同級生の女性が働いていたのが繁華街の喫茶店で、私も妻もその同級生とは(別々に)友達だったのでともによく(別々に)お茶しに行っていたのでした。

なんだか好きになり、5歳年上という事もあってすぐ告ってしまいました。大学院入学直後の1995年の4月頃だったと記憶しています。28歳でした。

振られました(1)。

昨年末、かしいかえんが閉園する際にインスタのストーリーの載せていたものです。確かに涙を誘います笑

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...でもまあいいや、3連戦の初戦に負けただけだし(プロ野球か)、また5歳年上という事もあって

じゃあ一緒に遊びに行ってよ!

とクソ甘えモードで友達状態を続けました。これは成功しました。なので頃合いを見計らってまた告りました。

振られました(2)。

さすがに落ち込み始めましたが、もうちょっと粘ろうかな、とまたしばらく経って告りました。

振られました(3)。

あと一回振られたら諦めよう、と遊んでる最中、なんかいい感じになり、告白成功しました(というか逆に告られめちゃくちゃ驚きました)。物事は粘りが必要なんですね笑。

非常勤の話が来る

大学を退職した訳なので無職です。42歳なのに。ただ前の勤務先から「非常勤で来て」とあらかじめ言われていたので、元々持っていた科目のうち数科目を教えに週1回、新幹線と在来線、タクシーを乗り継いで山口まで行き教えていました。

先生なんなん!泣いて損した

と一部学生に抗議されました。そう、退職直前の授業で

私はこの大学を退職することになりました。いままでありがとうございました

と学生たちに挨拶していたからです。非常勤で週1回来てるだけだよ、と言ってもそんなの学生には関係ないですからね。

ただこれだけでは収入は激減です。妻は働いていないなのでヤバいです。と2009年秋(43歳になったばかり)に偶然2つ目の大学のゼミの先生、つまり恩師から携帯に電話があり

2010年度から非常勤で何科目か教えてくれん?山口からだったら遠いかもだけど

と。まだ福岡に帰ってきた事をお知らせしていなかったので、その旨お話しした上で二つ返事で引き受けました。

自分の母校で、非常勤とはいえ教えるのは感慨深いものがありました。時には同じ教室で、恩師が3限、私が4限担当という事もあり、なんか頭の中がぐるぐるしてしまいました。

福岡に帰ってきた事を周囲にお知らせすると、徐々に他大学の知り合いからも非常勤をたのまれるようになりました。結果的に7大学で社会学および情報処理入門の授業を教えるようになりました。これでなんとか食いつなげます。

公募を出すも...

ただいつまでも非常勤だけで生活していくわけにはいきません。結婚もしていたので。

それで再就職しようと大学教員の公募をいくつか出しました。なんと全滅でした。「家から通えるところ」のはずが、しまいには東京あたりまで触手を伸ばしていました。

中でも悔しい思いをした大学の公募がありました。45歳、2012年の夏に応募後、しばらくすると封書が届き

あなたは最終審査1名に残りました

と書かれていました。

1名って俺だけやん!もう通ったも同然やん!

と小躍りし嬉々として最終面接の準備をしていました。

するとそれからしばらくしてまた封書が来て

あなたは最終審査4名に残りました(前の通知は誤りですごめん)

とありました。ファッ!?こんな事ってあるの?と狐につままれた思いで、まあでも仕方ないや、と最終面接に備えました。

落ちました(涙)。

あとで中の人にいろいろとお話を伺うことができたのですが、私に決めようとした際に強硬に反対する方がいらっしゃったようなのでした。専門も違うしなんでそんなに反対されたのかよくわかりませんが、一つ思い当たるのは山口から帰って数年の間バタバタしていたため全く論文を書いていなかった事と、⑥で書いたように、私の論文は社会学の中でも異端でやや哲学っぽく、その内容が哲学の先生を「なんだこれは哲学を(自主規制)しやがって」と怒らせたようでした。

しばらく落ち込んでいましたが、後でその大学に赴任した先生のご業績を見ると私より明らかに上(中身は読んでませんが掲載媒体や論文数等から)でしたのでこれは正味負けていたのでした。

一番縁遠いと思っていた大学に就職してしまう

当時の非常勤先には女子大も入っていました(2010年から教え始めました)。女子大で教える事自体は特になんとも思いませんでしたが、最寄駅と大学を結ぶスクールバスに乗るのが苦手でした。スクールバスはチケットさえ買えば教職員も乗っていいのですが、実際乗っている教職員は(当時は)あまりおらず、時には私以外全員学生、という事もありました。で、

満員のスクールバスなのに私の横の席だけ空くのです(涙)

うわーっ!思い切り避けられてる(涙)

とどんよりしながら、でも原チャリの免許すら持ってない私はスクールバスに乗るしかありませんでした。駅まで歩いて15分ぐらいなので歩けばいいという話ですしたまには歩きましたが、その大学は山の上にあるので、そして私はものすごい汗っかきなので、真冬でも汗だくになるのでした...。

正直、「ここに赴任する事は絶対にないだろうな、なんか合わなさそうだし」と固く思っていました。

と、ある時(=2015年度から)この大学に新学部ができる事になり、しかも(私の専門でもある)社会学をベースにした学部だという事で、とりあえず面接でも受けてみれば、と声をかけていただき、超汗っかきでスーツ大嫌いな私が真夏にスーツを着て最初の面接(というか面談)に望みました。47歳、2013年8月の話です。その時お話しした副学長(⑥で少し書いた、赴任して最初の入試業務の際にジーンズにトレーナー姿で行って叱られ、ジャケットをお借りしたあの副学長です)に

まだ何も決めていないので、今日はお話だけ伺っておきます

と言われ、うーん、どうなんかな、という感じで連絡を待ちました。

するとしばらくして業績本体を全部送るようにと連絡があり、その後採用面接をするのでよろしく、と続きました。なんでも15分程度の模擬授業もやるから準備よろしく、と。

最終面接当日、模擬授業ではさすがに緊張しました。面接官として偉い先生方が5,6名ご覧になっている前でやる訳です。ただ普段通りやろう、といきなり

はい、じゃあ授業を始めます。こんちはー!

と始めました。すると面接官の先生方が一斉に

こんにちはー!

と返してきたので吹き出しそうになりました。

無事面接は終わり、2014年秋に内定をいただき、めでたく採用していただく事になりました。48歳になろうとしていました。普通なら会社員として脂の乗り切った頃でしょうね。

ただ新学部です。しかも社会学ベースです。そして私は社会学が専門です。赴任(つまり新学部スタート)までまだ半年以上間があったのですが、たびたび会議に呼ばれたり、カリキュラム作成を手伝ったりしていました。

新学部発足でバタバタしていたのでしょう、その時私はまだ赴任前だったにもかかわらず、会議等で呼ばれても交通費すら一切いただけていませんでした。

で、頭にきて

一度釣った魚には餌をやらないという事でしょうか?

と例の副学長にメールしてしまいました。ほんともうお前こういうとこやぞ。

当時の副学長はほんといい方で、すぐに謝罪と交通費等の支払いをしていただきました(実はもともと副学長はきちんと手続きをお取りになっていたのですが、どこかで止まっていたようでした)。数千円のことなので黙っていてもよかったのですが、こっちは非常勤、つまりバイトのみで食い繋いでいたし、やっぱ何事も最初が肝心だと思い連絡しちゃいました💦。

とにもかくにも無事専任としてスタートする運びとなりました。

10. 専任教員時代(2)

すぐ辞めたくなる(え?)

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この写真は2015年4月1日の辞令交付式の直後に自分にあてがわれた研究室に初めて入って撮影したものです。6年前の春です。左上の写真の鏡を見るとスーツ姿が少し映っていて笑えます。48歳の春です。あやや。

実はこの日早速

やっぱ合わんわここ。辞めてーーーー

となっていました。最初の赴任先大学ではそんな気持ち一切なく赴任してワクワクしかしてなかったので、大きな違いです。当時独身だったら80%ぐらいの確率で辞めてたと思います。なんせ中退王なので。中退王っていう王座なんかないわ笑。

ただすでに結婚してたのと、あと

大学院に入った時も同じ感じで不安しかなかったけどすぐ慣れたよな、もしかして今度もそうかもなのでしばらく様子見でいこう

を思い出しつつ、辞めるのは辞めましたw。ちなみに今の研究室の中も上の写真と大差ありません。本は自宅に置いているので。そのせいで、以前外部の方が私を撮影にいらした時に当惑させてしまいました。普通の研究室は本棚に専門書等がびっしりで、それを背に撮影すれば「らしく」なるわけです。それに引き換え私はスッカラカランの本棚です。迷った挙句最終的に壁を背に撮影していただきました(涙)。今度これ買って貼っておきますね。

すぐ慣れる

2015年春、新学期がスタートし、授業も始まりました。この大学には専任になる5年前から非常勤でお世話になっていたのですが、やはり専任で赴任するというのは全然違うな、と実感しました。あ、大学にはすぐ慣れました🥹。専任なので学生とも他の教職員とも毎日コミュニケーションをとり続ける訳なので、非常勤時代とはコミュニケーションの濃さが全く違ったのでした。

スクールバスの隣の席が空くのは相変わらずでしたが、たまーーに「せんせーのよこゲット!」などと乗ってきてくれる学生も稀ながら出てきて、こちらも一安心でした。

大学の忘年会でやらかす

今いる大学は学生数3000人弱の小規模な所です。つまりその分教職員の数も少なめです。教職員全体で200人はいないと思います。

という小規模校のメリットを活かしてか、毎年年末に大学主催の大忘年会がホテルや旅館の宴会場を貸し切って行われます。無料で高級な料理のコースが振る舞われます(いやほんとは毎月会費払ってるのですが)。

今はもう廃止されましたが、私が赴任した当時の忘年会では「新入りの教職員はなにか隠し芸を行うように」という謎ルールがありました。その話を聞いた時は「昭和か!」と突っ込みましたが、元々目がちたがりの性格なので「よーし、絶対だな」と、なんと会場になった、昭和天皇もご宿泊された由緒正しき旅館に、電子ドラム一式とスピーカーを持ち込み、ウィッグをつけた上で「始めます」とこの曲をバックに「叩いてみた」をフルでやってしまったのでした。2015年12月初旬の事でした。49歳です笑

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最前列は理事長、理事、学長、副学長、そして来賓の方々が座っておりました。みなさんの顔は幾分こわばっておられましたが、後日学長に「ドラムすごいね!」と言っていただきました。実に懐の深い大学です、はい。あと反省です、はい。

軽音部の顧問になる

この「隠し芸」が終わってテーブルに戻ると、同じ学科の同僚の先生から

私2つのサークルの顧問しているんだけど、ちょっと忙しくて...うちひとつは軽音部なんですよ

とお話がありました。

あ、じゃあ僕軽音部の顧問引き継ぎましょうか?

とノリで言ってしまい、そのまま軽音部の顧問を引き継ぎました。もちろん、私が顧問になってもいいかどうか、事前に部員に聞いてもらいました。

で、ここからが問題なのですが、またちょっとやらかしてしまいました。

⑧で、前任校でも軽音部の顧問をやっていた話をしましたよね。そして前任校は新設校だったので最初から私たち教職員がかなり食い気味でサークルに関与していたと言いましたよね。その記憶がまだ生々しく、最初ここでも「そのまんま」ふるまってしまったのでした。

2016年度の初めからこの大学でも軽音部の顧問をすることとなりました。

今でもよく覚えているのが、顧問になって間もない頃、学内の音楽スタジオに入って機材を見ていると、ドラムのパーツが壊れかけていたんです。

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赤い丸で囲んだ「スパー」と呼ばれる、バスドラムを支えるパーツです。

そこですぐ通販で新しいものを注文し、それに差し替えておきました。

...と、数日後ある部員から長文のメッセージが入りました。曰く、

修理ありがとうございました。でもその部品は近く部費で買おうとしていました。そもそもこのドラムも部費で買ったものです。なので、好意からにせよ、先生の自費で修理したりしないようにお願いします。あと、先生は顧問ですがもうちょっと後ろに下がって見守っていただけると嬉しいです。

読みながら顔が真っ赤に、いや真っ青になってしまいました。「あちゃー、やってしもうた」という感じです。確かに中高の部活動とは違うもんな、と反省しました。

ただその一方で、

今度の学園祭、バンドのドラムの部員が実習で参加できないので先生ヘルプで入ってもらえますか?

という申し出もちょくちょく受けるようになりました。これは二つ返事で引き受けていました(今も絶賛引き受けています笑)。

他大学との交流を始める(部員が)

当時の軽音部員たちは、自分たちで楽しくやりたい!というノリが強かったように思います。それでなんの問題もありません。ただ私の非常勤先にも軽音部が(たくさん)あり、そこの部員と交流したりするようになっていくと、

大学間交流も進めたらもっと面白いのに

と思うようになりました。ただまた出しゃばるとアレなので、静かにしていました。

ちょうどその頃、私の思いとは全く独立に、勤務先の軽音部のある部員が「大学合同ライブせん?」と嬉しいきっかけを作ってくれました。2017年春の話でした。

いろんな大学の軽音部の学生たちが動き、最終的に5大学の軽音部が参加してくれることになりました。

最初は遊園地の野外ステージを借りて1日開催、計13バンド出ました。同年11月の事です。初心者バンドからインディーズですでに活躍中のバンドまでさまざまで、ほんと楽しかったです。私も部員とバンドを組んで出てしまいました(お前そういうとこやぞ)。

2年目からは、私の勤務先のホールや、参加してくれている大学のホールを借りて、期間も2日に拡大して行いました。開催時期は初回と同じ、11月ごろでした。なお以下は当時の参加学生たちが作ってくれたフライヤーです。

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2020年、21年、22年は例のアレの影響で開催できませんでしたが、2023年度からはぜひ開催してくれたら、と思っています。私自身、イタかった学生時代を取り戻すような感じで、中に混じって(別にしゃしゃり出てきて演奏しなくてもいいのですが)楽しんでいます。ほんと楽しいです。

11. 今の自分

教育とか研究とかバンドとか

今いる大学に赴任してからというもの、研究よりも教育の方に軸を置いてしまいました。いや別にそれでもいいのですが、一応研究者の端くれとしては研究をあまりおろそかにするとマズい訳です。加えて思い出したようにぼちぼちバンド活動も始め出してしまい、もうね、という感じになってしまっているのが現状です。

この画像は2020年3月に行なったライブのものです。53歳...笑

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以前は理論社会学というお堅い分野で、なおかつ異端な(言い換えれば邪道な)研究をやってきていたのですが、大学院生(修士課程2年次終わり頃)の時の飲み会の場で、あの入試面接で口論になったのを止めていただいた先生から

ハナチェンコ君はせっかく音楽やってたんだし、なぜそれでフィールドワークとかやって、そういう研究しないの?今やってる、小難しいけどなんの役にも...あ、ごめんなんでもない

とアドバイスをいただいたのを思い出しました。それで大学のゼミも「音楽文化」をテーマにして、他の授業内容も幾分音楽寄りのものにしてきました。

今の若い人たちはほんとうまいです。何がって演奏が。僕らの時代の256倍ぐらいうまいです。あと私がバンドやってた若い頃とは何から何まで変わりました。なのでそういうところは若い人たちに教えを乞い、昔の話はリアル世代だった私の方がそりゃ詳しいので、なんかそういう点と点を結んだところでの研究をテーマにできないかな、と今考え中です。

そうこうする中、去年(2020年)の6月になりますが、どこを見込んでくれたのか、地元地上波テレビ局から「朝の番組で紹介しいたので出てくれますか?」と連絡をいただきました。目立ちたがりな性格なので二つ返事でOKしました笑。

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15分番組で、上の画像にあるように「音楽を通じて見えてくる社会のあり方」をお話しさせていただきました。へー、テレビ番組ってこんな感じで収録するんだ、と色々勉強になりました。15分番組でも撮影は数時間にわたってやりました。まあ私の要領が悪かったせいもありますが...。

超忙しかった今年度の授業

2020年度は例のアレの影響で、授業はほぼオンラインになりました。私としてはむしろいろいろ工夫できるチャンス!という事で、mmhmmやOBSやその他色々なアプリを組み合わせての授業にワクワクしておりました。授業配信はツイキャスでリアルタイム(&「ライブ履歴」からあとでオンデマンド受講も可能)行い、こういう機材を使いました。

オーディオインターフェイス、ヘッドセットやマイクは色々試しましたが、最終的にこれに落ち着きました。

当時は社会全体がリモートワーク一色のような様相を呈しており(まあ今も似たようなものですが)、それに連動して商品の品切れが続出し、それに連動して関連機材の転売屋が跋扈してどれもとんでもない高値になっていましたが、早めに購入したのでほぼすべて定価で買えてラッキーでした。

ツイキャスでのリアルタイムオンライン授業は、前期はラジオ&画像紙芝居形式で行いました。Wi-Fi環境にない学生が4G回線などでスマホ受講する可能性が多々あったからです。ツイキャスをラジオ放送にして、「動くスライドや動画」を画像で切り出したものを差し替えていくやり方です。最初は慣れずに大変でしたが、まあ程なく慣れました。

後期からは受講環境も整ったものと判断し、ツイキャスの動画配信形式でリアルタイム授業を行いました。この時、自分の声や動画音声が聞こえづらい場合があるようだったので、動画には字幕を入れ、また一部授業では自分の話す内容もリアルタイム字幕を入れました。画面下部の白地に黒文字の部分がそれです(その上の、黒地に白文字のものは動画に前もって付けた字幕です)。

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ツイキャスで(パスワード付き)授業を行い始めた時は、例の「30分制限」がネックでした。受講者にコインを投げてもらえれば延長できますが、これ授業なのでw、そういうお願いを受講者にするのはかなり気が引けていました。なので、こちらから言わずともコインを投げてもらった場合は

コインありがとうございます!

とお礼を言いつつそのまま授業を続けていましたが、コイン投入がない場合は30分でいったん授業を終えて、数分後に再開する、というめんどくさい方法を取っていました。さぞかし受講しづらかったのではないかと思います。その節はごめんなさいでした。

と、授業開始から1ヶ月経った2020年5月下旬にツイキャスからこんな嬉しいお知らせがありました。

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なんと30分制限を取っ払った「パブリック放送」枠に選んでいただけたのでした。調べたら、これは申し込んで審査の上許可が降りたら申請して認定、という事だったようなのですが、その存在を知らない私は当然申し込んでいませんでした。なので中の人が見て判断してくれたのだと思います。もう本当に感謝!です。すぐに申請して認定してもらいました。これで8時間はぶっ続けで配信できるようになりました(もちろん授業なのでそれぞれ90分しか配信しませんでしたが)。

ちなみに今は24時間まで連続配信ができるように、さらに便利になっています。ともかくこの認定は嬉しかったです。なので現在に至るまでオンライン授業はほぼ全てツイキャス行いました。2022年8月の時点で450回ほど行いました(残りの25回は顧問をしている軽音部のライブ配信等です。たまーにプライベートでも配信しています)。

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450回!?

一つの授業はふつう15回完結ですから450回ということはオンラインで授業を30科目分やったことになります。一番多かったのは2020年度で、平均すると前期後期それぞれ10科目づつ担当しました。ほぼ全ての科目がオンライン授業だった年度です。

学生だったら

前期後期それぞれ10科目づつ?いや私の時間割の科目数、それより多いし

と返すと思いますが、これ、「受講」じゃなくて「授業する側」の科目数です。大学によって違いますが、だいたい「年間」で10科目弱から10科目強ぐらいが専任教員の担当科目数なんです。そう考えるとめちゃくちゃ多いのがお分かりだと思います。ほぼ「倍」です。

2020年度はオンライン授業初年度だったので、それはまあいろいろあったのです。その影響で私の持ち科目が増えた、というお話でした。聞くところによると勤務先歴代1位の担当科目数だったようです。でもなんとか持ち堪えました💦。

2021年度から徐々に対面式授業が増えました。もとよりゼミは2020年度から対面式ベースでやってきていましたが...。2021年度のゼミ集合写真です(個人が特定されないようボカして載せますね)。

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もう本名そのまま載せちゃえ笑

2022年度はスタートから「ほぼ対面式授業」となりました。特に私の担当科目は全部対面式になりました。いろいろ意見はあると思いますが、やはり同じ空間で目の前にいる学生相手に授業するほうが遥かにやりがいがありますし効果も高いと思っています。

そしてツイキャス授業では匿名コメントできていたメリットを対面式授業でも実現しようと、「コメントスクリーン」を導入しました。これはニコニコ動画のように、スクリーン上に匿名で受講者がコメントできるという大変便利なものです。


...そんなこんなで、今は楽しく大学で過ごしています。バンド活動ももうちょっと活発にやろうと考えています。そしてなによりテーマを音楽文化にしての研究活動をきちんと形にしないといけません。あと博論...。

ということで、長々書いてきたこのテーマ「中卒だった頃の自分、今の自分」もここいらで終わりにしようと思います。もし読んでくださった方がいらっしゃったのであれば、こんな長々とした文章を、本当にどうもありがとうございました。今数えたら46000文字も書いてしまっていました。400字詰め原稿用紙で115枚です。これでもかなりはしょりつつ書いたのですが、それにしても書きすぎました、ごめんなさい。

少し間を置いて、今度は短めの新しいテーマで色々書いていこうと思いますので、今後ともどうぞよろしくお願いします🙇‍♂️。

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