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宿題をやらないという選択肢

自分が信じていた当たり前のことが他の人にとっては、当たり前ではないと知って驚くことは多々あると思います。常識が、他の場所でも、常識とは限らないことも然り。

例えば、私なんかその辺で野生のリスを見たら、おーかわいいなあ、とつい写真なんて撮っちゃいますが、場所によってはリスは害獣と見なされていて喜ばしい存在ではなかったり。

日本ではクジラ肉が学校給食で出ていたと私が話せば、ひどい、あり得ないと外国の方に驚かれたり。一方で、その人たちの文化では、皮を剥がれた丸裸のウサギがスーパーの肉売り場にあらわな姿で並んでいたり。

当たり前なことは、あくまでも、その場所や時代や文化という背景があって、その人にとっての当たり前であって、それ以上ではないと知ることがあります。他人と関わると自分の当たり前がゆらいで崩れることがあります。

子どもの頃、中学校の行事で林間学校に行った時、同じテーブルで味噌汁を食べていた生徒が、具を箸で拾って食べ、汁は捨てているのを見ました。「うちでは、味噌汁は具を食べるもので、汁は飲むものではない」と言っていたのを記憶しています。その生徒は堂々としていました。

汁を好んで飲む人もいるけど、メインは具を食べることだ、みたいな、おでんやラーメンのようなイメージでしょうか。

当時の私はとても驚いて、その考え方なかったわー、と衝撃を受けました。今思うと、もしかしたら親とか家族の誰かが塩分はあまり摂れないとか、汁物は作るけど飲まない方針の家庭とか、何らかの育ってきた環境の影響があったのかもしれません。私には理由はわからないのですが。

食べものに関してもう一つ。相方(通称ブッダ)がトマトをパンに擦り付けて、そのトマトをポイっと捨てるのを初めて見た時には、なんて非常識な!と驚いたものでした。食べ物を粗末にしてはいけないから、何でも食べ切ることがいいことだ、と盲信していた私は、次の時には相方がポイッとするのを静止して、パンに擦り付けて水分が失われたトマトを私が食べました。ジューシーな部分が失われたトマトはそんなにおいしくはありませんでした。

それでも、もったいない、と思ってしまう私は、トマトをパンにこすってポイ、が、味噌汁の具だけ食べて捨ててしまうような、何か、道徳的に間違っているような気さえしていました。

しかし、ブッダの生まれ育った街に行った時、レストランでも相方の実家でも、みな、半分に切った小ぶりなトマトを、パンに擦り付けて、トマトの皮はポイッと捨てていました。そこでようやく私は、あ、これはこの地域ではそういう文化なのだ、私が正義を振りかざして、みんなのトマトの皮を食べなくて良いのだ、と理解しました。

パンにニンニクを擦りつけて、トマトを擦り付けて、オリーブオイルをかけて、食べる。トマトはそれ用のもので、まん丸で小ぶりで、皮は硬いけど中がジューシーで柔らかい。だから、パンにゴシゴシしたら皮だけが残り、それをポイッとする。その場所ではそれに適したトマトが栽培されていて、そういう食べ方が当たり前なのだと。

やたらにブッダが捨てようとする食べ物や残したものを、もったいないと食べていた私は、「ルンバ」と呼ばれるようになりました。人の事を食べ物を粗末にして非常識だと厚顔無恥な私は思っていましたが、向こうからしたら、私こそ人の食べ物の行く末にケチをつける変な皿掃除ロボットだったのかもしれません。

そんなブッダと、夏休みについて話していた時のこと。私は夏休みの宿題をギリギリまでやらず、最後に大慌てでまとめてやっていた、ものすごくずさんな、学び効果ゼロの計画性のない受け身の生徒でした。

ああ、あれをさっさと休みの前半とかに済ませられる人間になりたかったなあ、と私は思うのですが、今でも何事も期日が迫らないと実行できずにいますから、全く成長は遂げていません。

文化が違えば夏休みの宿題も違うのかな、と思い、「子供の頃、学校から夏休みの宿題って出されてた?」とブッダに聞くと、「あったよ。やらなかったけど」との答えが返ってきました。

私は驚いて「学校の宿題やらなくても大丈夫だったの?」と聞くと、ブッダは「だってやらなくても殺されないってわかったから、やらなかった。ははは」と悪びれるでもなく、なにも気にとめていない様子です。

私は、学校の宿題は、やるのが当たり前だと、信じていました。でも本当はそんなことはなかったのではないか。絶対にやらないといけないものではなかったのかもしれない。当たり前じゃなかったのだな。宿題やらないという選択肢だってこの世にはあったのです。

やらなくても、無事大人にもなってるし、困らずに生きている。私はあまりにも、体制に言われたことを絶対だと鵜呑みにして生きてきたのではないかと。

命がとられないならやらない、という英断をできる生徒、やらない勇気と決断力、迷いも後悔もない態度に感心しました。

ブッダは、ははは、と言っただけで、この話題に何の関心もないようでしたが、私の固定観念は、地球温暖化で崩れるシロクマの足元のように、衝撃を受けていました。

という大げさな話でした。

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