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強烈な人を受け入れる寛容な世界

最近姿を見なくて、どうしているのかなと気になる人がいます。その人は名前も知らないおばさんなのですが、私が今の場所に住み始めて一年半くらいの間、頻繁に、近所のカフェテリアや、道を歩いている姿や、ベンチに腰かけている姿を見かけていました。

ふくよかな体型に白髪の短髪、70代くらいの女性です。赤いカーディガンに白いカットソー、ひざ下丈のキュロット、素足にサンダルで杖をついています。便宜上、おもちさんと呼んでみます。

おもちさんは、私と相方が平日の朝にコーヒーを飲みに行く食堂のようなカフェに、よく一人でいました。一人といっても静かに座っているわけではなく、大きな声でお店の人に話しかけたり、「ハビ!水!水ちょうだい!」とカウンターの中で忙しく働くハビさん(仮名)にリクエストしていました。

いつもトーストかコーヒーだったりを注文していたと思うのですが、手提げがわりのビニール袋からおもむろにバナナを出して食べ、皮をテーブルに置いていったり、ワイルドな行動をしていました。

謎だったのは、おもちさんは自分では会計はせずに出ていくことです。会話を聞いている相方に教えてもらったところ、「娘か誰か家族が、まとめてツケを払いに来ているみたいだよ」ということでした。

コーヒーと水だけでしばらく盛大に喋るおもちさんは、時々リクエストがヒートアップして、温厚なカフェの息子ハビさんに怒鳴られる場面もありました。

相方に「なぜハビは切れたの?」と聞くと「薬買いに行くからお金くれって言って、ハビは自分の家族にきけって言い返してたよ。これまでのツケが未払いみたい」との解説。仏の顔も三度まで、親切なハビさんにも限界はあります。

ある日、別のカフェ、おじさんが1人でやっているお店でコーヒーを飲んでいたところ、おもちさんが杖をついて現れました。

私たちは、「ここもおもちさんの行動範囲なんだね」と言いながら、様子を見ていると、おもちさんは「アレが払いに来たでしょ!コーヒーちょうだい!」とお店のおじさんに注文しました。

おもちさんは、聞き耳を立てなくても、そこにいる人みんなに聞こえる大きな声で話します。ただ、トリッキーなのは、おもちさんは歯が一部抜けているせいかはわかりませんが、何を言っているのかよく聞き取れないことでした。

日当たりの良いテラスの端の席で、おもちさんは親分の如くどっかりと座りコーヒーを飲んでいます。いったい、おもちさんの家族が、ツケ払いの精算行脚をしている店は何箇所あるのでしょうか。

信頼決済システム、ツケ払い。おもちさんに信頼があるのか、家族にあるのか(おそらく後者でしょう)、古くからのご近所さんだからなのか、私には分かりません。でも、少し強烈な人を受け入れる寛容な世界が、なかなか素敵だな、なんて私は思うのです。

ある時、私が1人で道を歩いていると、ベンチにおもちさんが座っていました。私を見て、何か言ったのですが、私にはおもちさんが発した言葉が分からなかったので、とりあえず「ブエノスディアス(おはようございます)」と言って通り過ぎました。おもちさんはモゴモゴしながら「ブエノスディアス」と返してくれました。

しばらくして、私と相方が道を歩いていた時、おもちさんとすれ違いました。おもちさんは、何か言いましたが、私にはやはり聞き取れませんでした。

相方は「こんにちは。持ってないんだよ、ごめんね」と言って、通り過ぎたので、私は「おもちさん、何聞いてたの?」と尋ねると、「食べるもの買いたいからお金ちょうだいって言ってたよ」とのこと。

なるほど、お金のリクエストをしていたのか。少し前に私がおもちさんに声かけられたのも似たようなことだったのかも知れません。お金ちょうだい!と言ってるおもちさんに、おはようございます!と返すアジア人。だから、おもちさんモゴモゴしたのか、私の言語力が低くてごめんなさい、おもちさん。

それから、おもちさんの姿を見なくなり、しばらくした頃、久しぶりに、ハビさんのカフェのテラスにおもちさんの姿を見つけました。杖を片手に親分の風格で股を開いて堂々と腰掛けています。私たちは店内に入り、いつもの朝のようにコーヒーを飲み、さて家に帰ろうと店を出ると、おもちさんもテラス席から数歩進み、店の角を曲がるところにいました。

杖を片手に立ち止まっているおもちさんの前を通り過ぎるときに、目があったので「ブエノスディアス」と声をかけました。おもちさんは私たちと目線を合わせたまま「ブエノスディアス」と言いながら、キュロットの腰に手を当て、おもむろに下へと向かって動いていました。

我々は止まることなくおもちさんの前を通り過ぎ、あまりの衝撃に息を飲み、振り向くこともできず、しばらくしてから、「なんてこった」と声を出しました。おもちさんはワイルドなのです。

まあ、日本も結構昔は立ち小便ってありましたよね。めくじら立てるようなことではないのかも知れません。今でもベルリンの公園に行くと、ちょっとした茂みや車の影で体内の水分をリリースされている人々を、男女問わず、しばしば見ることができます。見たくはないですけど。自然の成り行きで、ごく当然の営みとも言えますね。

犬猫も、しっかり自分の存在を主張するために日々証拠を残しているのですから、おもちさんだって、自分の縄張りを明確にしようとする、ごく自然で本能的な作業中だったのかも知れません。おもちさんはカフェにいたのに、なぜ店内のトイレに行かなかったの、という疑問よりも、もっと重要な使命があったのかも知れません。

しかし、私はおもちさんがどんな使命を実行されたのか見届けていないので、もしかしたら、おもちさんは足腰を鍛えるためにスクワットをしただけかも知れません。わかりませんよね?

それ以来、おもちさんの姿を見ることがなく、どうしておられるのだろうかと、私は気になっています。家族からツケ払い禁止されたのかな。お元気でおられることを願うばかりです。

ちなみに、日本では屋外で体内の水分をリリースすることは軽犯罪法にて取り締まられているようですが、「緊急避難」として許されることもあるそうです。緊急なんだから仕方ありません。そうですよね。いかなるルールにも例外はあるのですね。

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