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不思議なものを見る日

不思議なものを見る日、というのが時々あります。妖精や幽霊が見えるとかそういうことではないのですが、私が不思議だなと思うことは、みんなは不思議に思っていないなら、それは普通のことであって、ちっとも不思議ではないのかな、という類のことです。

トートバッグ

朝、近所の路地を歩いていると、向かいから、スーツを着た男性が歩いてきた。40代か50代かと思われるスラッとした細身の黒人男性で、革靴を履いて、頭の先からつま先までフォーマルな装いでしたが、首からエコバックのような布袋を下げていました。

四角くて、生成りのコットンで、持ち手の長い、肩からかけるような、普通のトートバッグです。それが、風のない日の国旗のように力なく、男性の首からかかっていました。

首に布袋をかけたスーツの男性は、背筋を伸ばし、まっすぐに前を見据えて、確実な足取りで、私の横を通り過ぎて行きました。

わたしは思わず隣にいた相方に「いま通り過ぎた人見た?」と声をかけたのですが、「え?見てなかった」と言われて、共有できず、あれは何だったんだろうという私の疑問は、手から離れて木の枝に引っかかった風船のように放置されました。

その30分後くらいに、カフェの中から窓の外をぼんやりと眺めていると、目の前の道を、60代か70代かの小太りな白人のおじさんが、首からトートバッグをかけ、通り過ぎていきました。離乳食を食べ始めた赤ちゃんのごとく、顔の下に布袋がぶら下がっているのです。おじさんの態度は至って普通で、ごく当たり前の日常を遂行している様子です。

あまりの短時間に連続して、首から布袋をかけている人を見て、私は少し当惑したのですが、私のように二度見しているような人は周りにいないので、これはなんら不思議がるようなことではないのか、または、あの男性たちの姿は私にしか見えていなかったのか(そんなはずはない)。

もし私にしか見えていないとしたら、首からトートバッグを下げたおじさんたちに、一体なんのメッセージが込められているのでしょうか。頭で考えずに、ただあるがままを受け入れろ、という、なんらかの精神修行の一環なのでしょうか。

私は未熟な人間ですから、いちいち反応して、気になってしまいます。

晴れた日の午後、スーパーからの帰り道を歩いていると、頭上でバタバタバタと音がするので見上げると、ハトが木の枝にとまろうとして止まれず、ずれ落ちながら、慌てたように羽を動かしていました。

私はつい先日、木の下でぼうっとしていたら(だいたいぼうっとしているのだけれど)、小鳥がフンをして、私の左肩にしっかり落ちてきたばかりだったので、このハトにもフンをされないようにと注意しながら、見上げていました。

この木の枝はどう見ても止まり木としては細すぎて、ハトの体重は支えられず、諦めたハトは、そのままバサバサしながら隣の木へ飛んでいきました。しかし、それも同じ種類の木で、背は高い木ですが、枝はやはり細すぎて、ハトが足を乗せるとすぐに釣り竿のようにしなってしまい、ハトはずれ落ちてしまいます。

なんてどんくさい鳥なんだろう、確かハトは、かつては伝書鳩として軍事の重要な通信手段を担ったり、今でも長距離レースで活躍するスポーティな生き物ではなかったのだろうか、と不思議に思いながら、私はハトの行方を見ていました。

2本の街路樹で失敗したハトは、すぐそばの建物の壁のちょっとした出っ張りに近づいて、そこにも立ちどまれず、再びバタバタしながらUターンして空中で困惑しているように見えます。もう慌てすぎて、地上に降りるという選択肢や屋根の上に行ってみるという可能性が見えなくなっているのかもしれません。

そのあと、もう一度建物に近づいても、もう無理だと言わんばかりに、そのまま上昇し、建物の向こうに飛び去って行きました。

ハトにはハトの事情があって、私が考えるほど、ハトの着地できる場所はどこでも良くないのかもしれません。

鳩2

早朝にハトの死体を2羽見ました。そんなの珍しくない、と言われるかもしれませんが、不運にも交通事故にあったのかなというハトの惨劇は時々見ますが、この日に私が見たハトは、道路沿いではない場所でした。

一羽は教会の柵の中、もう一羽は公園の原っぱに、ただ横たわって死んでいました。外傷は目立って見られません。寿命を全うしたのか、病によるものなのか私にはわかりません。

ふと考えると、交通事故にあったハト以外に、あまり死体を見たことはないような気がします。あんなにたくさん、街中にどこでもいるハトですが、その存在している数の分だけ、死んでいくハトも当然いるのでしょうけど、その死体は不運にも道路で亡くなったもの以外に私は見た記憶がありません。

でも、人間だって、そのほかの動物だって、生きている姿はたくさん目にしても、死体というのは然るべき場所に行かないと、日常的に目にするものじゃないから、ハトにも然るべき場所があるのかもしれません。

猫が死ぬ前には姿を隠すように、ハトも野生の本能というものなのか、最後は我が家の畳の上がいいよね、と人目につかない静かな場所に行っているのかもしれません。

そうすると、私が見た、教会の柵の中で死んでいたハトは洗礼を受けたクリスチャンだったのかもしれないし、公園の原っぱで死んでいたハトは幼少期の暖かい思い出がそこにあったのかもしれません。

まったくどうでもいいことばかり考えている毎日です。すみません。


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