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海で溺れかけたシェフの最高チーズケーキ

島で一番おいしいチーズケーキを出す店があります。あくまで私たち(相方と私)の個人的な舌による「一番」です。

トーストと新鮮な野菜や卵、パンケーキなど、ブランチといった雰囲気のメニューで、テーブルは10もなく、シェフとウエイター2人でまかなうのにちょうど良さそうな規模です。

店内奥のガラス張りの作業スペースには、食材の入ったタッパーや瓶、調理器具が規律正しい工場のように並んでいます。店内を見渡せるオープンキッチンの壁は、お気に入りのフィギュアを棚に並べた完璧な趣味の部屋のように、道具たちが等間隔に整列して静かに出番を待ち、シェフの聖域が完成されています。

壁も道具もツルツルだろうなと遠目に思うほど、清潔に保たれており、シェフが毎日拭き上げているのかな、といった感じです。ここがホテルのレストランの厨房かと錯覚するような、白いユニフォームを着たシェフが、オープンキッチンの中を右に左に俊敏に動き回っています。

オープンキッチンの横には、カフェカウンターがあり、もう1人の男性がコーヒーを作っていて、彼はウエイターとして注文をとり、配膳もします。

カウンターにはガラスのショーケースがあり、スイーツが並び、といっても何種類もあるわけではなく、チーズケーキと何か焼いたものが二種類くらい置かれています。

私は甘いものが得意ではなく(胃もたれしてしまう)、ケーキはよっぽど空腹な時に腹を満たすためには食べられるのですが、あまり好んでは食べません。ただ、チーズケーキだけは、ひいきして時々食べます。

ここのチーズケーキはもちろんシェフの手作りで、さらにシェフが作った柑橘のジャムも乗って来ます。初めて食べた時に、我々は、食感、味ともに、予想を超えるおいしさで驚きました。

そもそも、私は病院食も飛行機の機内食も、賞味期限切れたばかりの食べ物も、だいたいなんでもおいしくいただける舌をしているので、私に何かレビューされても、あまり当てにならないし、お店側もありがたくはないかもしれません。

そんな信用度はあまり高くない私の味覚でも、このチーズケーキは何かが、どこでもよくあるものとは違うと感じました。牛の存在を近くに感じるのです。

それは牧草の香りがするとか牛糞の匂いがするとか、そういうことではなくて、とにかく「新鮮だ!」ということを非繊細な私の舌でも本能で感じるような、このチーズケーキは物理的な距離として牛から近いはずだ、そんな衝撃です。

あまりにもおいしかったので、お会計の際に相方がシェフに伝えると、「材料は島の中で調達していて、チーズはうちの父親のところのなんだ」と誇らしげに教えてくれました。どうりで、牛の存在を近くに感じたわけです。

すっかりここのチーズケーキを気に入った我々は、何度か、週末の朝に再訪しました。この店はすぐに満席になってしまうので、開店から間もない朝早めの時間を狙います。

毎回、シェフは俊敏に動き回り、野菜を炒めたり、パンケーキを焼いたり、生クリームを泡立てたり、活発に働き、かつ、お皿の上は自分なりの美学があるのだろうな、というビシッと決まった盛り付けです。

すべて味はおいしい、値段も高くない、でも、何か、この店をパーフェクトと呼ぶには一瞬考えてしまう「ひっかかり」がありました。2回目、3回目と行く度に、その確信が深まってきたのですが、それはシェフと働くもう1人の彼です。

熱心に働くシェフが「動」だとすると、ウエイターの彼は「静」で、シェフが太陽なら、彼は月です。ここでは彼のことをムーン氏と呼んでみます。

ムーン氏は、表情を変えず(ニコリとせず、でもブスッともしていない)、あまり声も出さず、ゆっくりコーヒーを作っています。コーヒーはおいしいのです。とても。そして美しくもあります。

ラテマキアートを頼めば、きめ細かく完璧な泡が乗って出てきます。アメリカンも濃すぎず、酸っぱくも、にがくもなく、個人的に好ましい味です。これらの味がムーン氏の手柄なのか、仕入れているコーヒー豆がおいしくて、マシーンも適切だから、ムーン氏の存在は全く関係なく作り出される味なのか、私にはわからないのですが、ムーン氏の仕事が丁寧なのは確かです。ゆっくりですが。

この店がパーフェクトになることを妨げているのは、聞かれてもいない我々の見解を率直に言うと、ムーン氏のコーヒー提供スピードが我々の忍耐力を試していることです。几帳面なせいか、時間を贅沢に使い、「丁寧な暮らし」を実行。そしてそれが全体の作業スピードを圧迫。だから、シェフが自分で料理を出し、皿も下げに行っている。仕事量のアンバランスが気になります。

しかしムーン氏は決して焦りを顔に出しません。それは、きっと内心も焦っていないからなのでしょう。

私はアメリカンをもう一杯飲みたくて、食事の途中におかわりを頼みました。ですが、コーヒーは料理を食べ終えても出てきません。私は、痺れを切らして、皿を下げにきたムーン氏に「まだコーヒー作ってなかったら、もういらないです」と伝えたところ「いや、今出すところだよ」と言って、落ち着きをはらい、間も無くしてアメリカンを持ってきました。謝るでもなく、もちろんニコリともしません。

相方と私は、なぜこの情熱と才能溢れるパーフェクショニストなシェフが、ムーン氏と働いているのか、解せずにいました。

勝手な私の妄想ですが、シェフは自分の城を持ちたくて開いたビジネスだと思うのですが、だとするとシェフがムーン氏を雇っていると想像しますが、何か指示をしたりするのも見ないのです。さもするとムーン氏は共同経営者なのか、そんなふうには見えないのですが、わかりません。

ムーン氏はひょろりとした細身の体型に、カールのロングヘアを後ろで束ねて、白いTシャツからのぞく腕にはタトゥーが入った30代後半くらいに見える男性です。決して不機嫌なわけではなく無表情で覇気がないだけで、自分のペースで生きているのだと推測します。

私の相方も同じように疑問に思っていたようで、「シェフ、もっと仕事が早いウエイター雇えば、もっとビジネスに貢献するんだろうにね。なんで彼を変えないんだろうね。
思うんだけど、きっと彼は、命を助けた過去があるとかじゃないかな。海で、溺れかけていたシェフを、彼が救ったんだよ。命の恩人だから、シェフは彼がスローでも雇い続けるんじゃないかな」と言いました。

アップアップしながら海面から顔と腕を出して、「おーい助けてくれー」と救助を求めるシェフ。周りには不幸にも人がいなくて、浜にいたムーンだけがシェフの姿を認めて、表情一つ変えず、ゆっくりストレッチして、Tシャツを脱ぎ、バッと海へ飛び込みクロールでシェフを助けに行く。

「そうか、それなら仕方ないね」と言って私は笑いました。だって、彼が助けてくれなかったらこのカフェはないんだから。私たちがこのおいしいチーズケーキを食べられるのも、ムーン氏がシェフを救ったおかげなのだから。

最初はイライラして、リピートするのは挫けそうだったのですが、おいしいチーズケーキが食べたければ、そこの葛藤はクリアしなくてはなりません。堪忍袋の緒を切れないように頑丈かつ超長くするか、注文の仕方を工夫しなくてはならないと私たちは考えました。

そもそも混む前の朝一に店に行くこと、そしてドリンクは最初はオレンジジュースにして(ムーン氏が絞ってくれます)、私たちは2品頼むので、1品目が出てきたタイミングですかさずコーヒーを頼むと、あとから待つことなく全てがスムーズに行くことがわかりました。

だって、シェフの命を救ってくれたんだし、シェフは彼に恩があるから彼のことは一目おいてのだろうし、チーズケーキを口に入れるとまぶたの裏で牛が微笑んでくれるのですし。私たちがムーン氏を学習して、順応すればいいのです。この店の体験はシェフの料理だけでなく、ムーン氏も含まれるので、避けることはできないのですから。

真剣で熱心なシェフの手がける料理を味わいたいという強い気持ち、そして、ムーン氏の働き方を許容できる精神的(時間的)余裕がある人が、島で一番のチーズケーキを食べることができるのです。

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