エリスと占いの館

 はげかけた手すりの塗装に欠けたタイルの踏面。薄暗い照明の中、埃まみれの壁に触れないように歩く。壁の中をエリスが駆けて、わたしの前を先導していた。
「もうすぐだ」
 エリスは、ハムスターによく似た動物だった。小さい足をくすくすと動かし、頼もしい背でわたしを引っ張ってくれる。
 喉の奥に小骨が挟まったままみたいなもやを抱えて、わたしは追いかける。
 
「ああ! 止まって。その下はワニがいるんだ」
 エリスがしっぽで示した先で、ワニがぐっすり寝ていた。ふす、と空気を吐く様は似つかわしくないほど可愛らしい。
「寝起きがひどすぎるんだ。四六時中眠っているってのにね。この前なんかきみ二人分くらいの大男を丸呑みにしてさ」
 なんでもない風にエリスが言うものだから、途端にわたしの脚は勝手に震え出す。けれど、「衝撃には鈍感なんだ。飛び越えれば大丈夫さ」自分は壁を巡って安全圏にいるエリスは、わたしがそうすると信じきっている。
 いち、に。
 ゆっくり、ふかぶかと身を縮めて膝のばねで飛ぶ。降り立った場所で埃がぶわりと舞い上がった。おそるおそる振り返れば、ワニはくしゃみをすることもなく眠っている。胸をなでおろした。
「今日はこの下だ」
 上り続けていた階段の先は、すべり台みたいに下に伸びていた。目的地に着くまでに第二のワニがいるんじゃないかとエリスを仰げば、「大丈夫、一直線さ」どこか自慢げに、ひん曲がったヒゲをさすりながらエリスが言った。それならと、すべり台のてっぺんに座る。ステンレス板特有の冷たさがしみた。エリスの笑い声を遠くに聞きながら乗り出して、ジェットコースターに振られているときみたいな強風に目をつむった。
(う、わ)
 大きな衝撃を思い描いて。
 
 ぼすん、とわたしを受け止めたのは部屋のクッションだった。前方では、再生が終わっただろう映画のメニュー画面が繰り返される。
(今日も会えなかった)
 わたしの悩みは、今日も占い師に届かない。
 
 画面の中でくるくるとエリスが動いた。
 
 *
 
 フィルムの中のエリスは、占いの館で〝住み込みのアルバイト〟をしている。アルバイト代は、生のナッツ。仕事は道案内。占いの館に辿り着いてしまった人を、点在する占い師の元に届けるのだ。
 
 悪夢に悩まされているならバクに。美しくなりたくて薬を煎じてみようとしたなら蝶に。結ばれない恋に身も心も擦り切れたならイルカに。縦横無尽に壁の中を駆け巡り、エリスは憔悴してしまっただれかを導く。
 
 お気に入りの場所は、窓の光に照らされる、ほこりでまっくろに染められた壁。エリスは尋ね人が来ない間、壁を黒板にみたてて数式を書く。
 エリスの頭の良さは並大抵のひとを越えていて、軍の参謀官が「占いでどちらの策が良いか聞きたい」と作戦を持参したときには、すぐに評価して第三の案を渡して帰した。占い師の手を借りるまでもなく、いや、それ以上の手柄を得て参謀官は舞い戻っただろう。エリスは当たり前だという顔をして「論理的に考えただけさ」とひげを揺らす。
 
 けれどもエリスは、その策でどこの国が勝ち、どこの国が負けるのかということには無関心だった。それを憂いた館の主は、あるときから占いの場にエリスを同席させるようになった。
 案内だけして立ち去ったり、占いの内容に口を挟んだりしたら、エリスのアルバイト代はナッツ一粒にまで減った。
『従うほかないんだ。なにしろ主のくれるナッツは美味しい』
 そうはいうものの、エリスは楽しそうに占いを見物していた。
 
 そうしてエリスはどうなったんだっけ――。
 
 *
 
 ――エリスの映画を見たのは、ひとつにはインプットの一環だった。
 
「それで、今日は何をしていたんだい?」
 今日もエリスはわたしを先導する。先に占い師が待ってくれているかどうかは定かじゃない。けれどわたしは性懲りもなくフィルムを再生していた。占いの館は、いつも少しずつ姿が異なる。
「ずっと動物図鑑の模写をしていたよ」
 エリスが案内してくれる道すがら、出会う動物たちを目にして、ふと思い立った。図書館まで赴いて、一〇日ぶりくらいに太陽の光を浴びたように思う。
「へぇ! それはまたどんな意図なんだい?」
「わたしの漫画には動物がいないと思って」
 〝多様性がない〟とは担当編集の談だ。苦々しく吐いた表情がよぎって、口を噛む。
 エリスはそんなわたしの様子を気にもしない。
「なるほど! きみはこの館に来るヤツにしては決断が早いな」
「はやくなんてないよ。だって」
 
 ――一度きりの佳作受賞。連なる五〇ものボツ。ボツ。インプットでみていたはずの作品。その登場人物に縋りたくなった。
 
 エリスはちょうどその時、階段の踊り場に取り付けられた大きな鏡を見上げていた。高い壁。エリスはけれど、飾り枠を飛び越えて鏡の中を歩く。
 そんなこと、できるんだ。
「思うに、きみはぼくと似ているな」
 エリスが鏡の真ん中まで歩みを進めると、すっと奥に伸びるレールが浮かび上がる。こっちだ、としっぽが指す。
 おそるおそる手を差し出せば、とぷん、まるで水の中に沈む心地がした。抵抗感を脱ぎ去って全身を埋めれば、いくぶん息が楽になる。レールの下を埋め尽くす透明な石が光を反射して、まぶしい。
 エリスはわたしの少し先を進み、時折振り返る。
 
「主もそう言うと思うのだが、」
 
 エリスの小さな背、もやの向こうで、かの占い師が立っている。
 
 
 *
 
 フィルムの中、手にチョークの粉をつけたまま物理学者がいう。〝真理とはとても小さいものだ〟語りかけられた学生は、気難しい顔をしていた。
 
『きみもネズミになってみればわかる』

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