ロンドン、ケンジントンでの生活とCiao bellaおじさん
チリチリと、かよわく鳥の声がする。高さ3メートルはあるビクトリア調の窓際にかかるベネチアンブラインドから、夏の葉の色が透けてレモンイエローになったロンドンの朝の光が差し込む。
休日くらいはゆっくり寝ていようという気持ちと、休日だからこそ美しい朝に生産的なことをしたいという気持ちをこねくり回して結局また布団に潜る。
夢だったケンジントンでの生活はロンドンにひとり、職なし部屋なしでやってきて半年ほどで実現してしまった。
前に住んでいたエリアより家賃は高いがそんなことより何よりわたしはケンジントンをただひたすらに愛している。
簡単にいうとケンジントンはロンドンはケンジントンパレスの西側に位置し、高級住宅街、デザインミュージアム等々で有名な、芸術家も多く住んだ文化的に大変豊かな場所である。
歴史あり、自然あり、権威あり、と言った感じで、また治安も他の地域に比べるとやや良い。ここで、背伸びをするでもなくただ私のまま住むというのが、心地が良い。
これまで生きてきて、こんなにこの少しの物理的なエリア、というものを愛したことはなかったように思う。自分の住むところを愛せると、自分の人生も愛せるようになるようである。
ベッドからなんとか這い出したら音楽をかけて読みかけのVictor Hugo を二ページか三ページ適当にめくり、外に出られるように支度をする。
私の土曜日の朝は近くのイタリアンカフェでカプチーノとクリームのたくさん入ったクロワッサンを手に入れることから始まる。
イタリア人は歴史上芸術や建築等様々な分野において非常に豊かな才能を発揮しているが、特にこのコーヒーと甘いものを朝から体に投入するというアイデアは特に素晴らしい。これが緩み切った土曜の朝の脳みそに効く。
旅行でふらっとミラノに行った時、小さなホテルで朝からマンマのホールケーキと淹れたてののカプチーノ攻撃を食らってからわたしはこの習慣のとりこなのでやめようにもやめられない。誰か止めようとしても無駄である。
砂糖とカフェインが駆け巡る身体を太陽に照らして、デザインミュージアムの脇を通り抜けケンジントンパーク方面に向かう。
ケンジントンパレスのあたりでは長さ50センチほどはある短機関銃を持った警官がウロウロしており、その横をほとんど水着のような格好をしたお姉さんが毛並みの良い背筋をピンとはった犬を連れて通り過ぎる。
ケンジントンパークの芝生の上では老若男女が今のうちにとごろごろ精一杯露出して日焼けしようとしている。
少年たちがフットボールやラグビーで遊ぶ横で、カップルが同じ本を二人で寝転んで読みながらcrispsを食べる。イギリスではポテトチップスのことをそう呼ぶ。フライドポテトは逆にチップスという。
いろんな肌の色をした人がいる。いろんな言葉を話す人がいる。みんな違う。全部違う。そうなって初めてわたしはわたしでいいんだと思える。こんなに地球の裏側まで来ないとそんなこともわからなかった、というのがおもしろい。人生、心が動く方向に、鼻をきかせながらフラフラと歩いていると案外幸せになれたりするものである。
ところでその「フラフラ」には時に勇気と根性と運が必要だが、最初二つの勇気と根性は、まずはハッタリで行動すれば(それが大変な時もあるが)後からついてくるものなのでお得な部類の武器であると言える。
強いから勇気が出るのではなく勇気を出すから強くなれるのである。勇気を出さないアンパンマンはたとえ内なるポテンシャルがどんなにすごくてもただのアンパンというわけである。
ところで夏というのは欠点が輝く季節である。まだらな日焼けの跡やそばかす、おろしたてのオレンジ色のサマードレスからはみ出たお肉なんかが妙に素敵である。その人の魅力、という感じがする。
あとわたしはあの公園でアイスクリームを食べながら歩く人たちを見るのがとても好きである。よほど気分がいいから公園の草の上でアイスクリームなどを食べていられるのである。
お口も頭も、ああ幸せ、大切なひとと味わう甘いつめたい塊は、どんな味がするのだろう。
だが、イギリスというのは突然寒くなる。さっきまで日差しが目に染みて痛いほどだったのに雨が突然サーっと降り始める。
そうすると空の彩度はぐっと落ち同時に地面で濡れる花が光り出す。
ケンジントンハイストリートにひっそりぬける、あのルーマニアの大使館のある通りには綺麗な紫陽花があることに気づく。日本のものと比べてやけにけばけばしい色だがそれが赤いレンガに負けないので良いのである。花の自意識やファッションセンスというのも捨てたものではないというわけだ。
大通りに出て道端の花屋を横目で見ながら、雨が降っても気にせずテラスでサングラスをして華やかなケーキを食べる人たちの間をすり抜けていく。
黒く光る運転手付きベンツから降りてくるお揃いのフリルがたっぷりのお洋服を着た小さな双子とその母親はHotel IVYのレストランに入っていく。
マクドナルドの前にはいつもと同じホームレスの人がいる。
街、というより、地球を見ている気分になる。わたしは、ここで、一人、生きている。
ものすごく孤独になることもある。学生時代オーストラリアにひとり、パンデミックで部屋に缶詰になった時などが一番さみしかったような気がするが、孤独というのはまさにロンドンの雨のようで突然降りかかる。
目をつむって、過去に誰か大事な人からもらった「ひとりじゃないよ」を必死に取り出して抱きしめようとするがなにも腕の中に感触として残ってはくれない。
だが孤独というのは自分のせいではないのだから気にしなくていい。降る時は降る。そういう時は雨の中ポンと現れる花などを眺めておけば良い。
それを耐え切った魂は磨かれて、いつか誰かの魂を温める、そんな未来もあるかもしれない。
雨足が強くなる。そろそろ家に近づく。オリーブオイルとワインの樽っぽい香りが鼻の奥に届く。夕方にアペロを楽しむみなさんで賑わうイタリアンレストランである。焼きたてのピザの香りもする。
ここはチーズやハムなんかがたまに安く売られていてわたしは時々入って何か買ったり買わなかったりする。
だがとにかく今日はもう帰ろう。天気が変わるとやけに疲れる。お気に入りの皮のブーツを濡らしたくない。そう思って足を早める、下を向いて、足元を見つめて、傘をキュッと体に寄せる。
わあ眩しい、眩しい?
「Ciao Bella!」
何が起こったのかと‥ 一瞬思考が止まる。
顔を上げるとレストランの太ったおじさま店主がわたしをみてニコニコとしていた。
どうやら俯いて家路を急いでいたわたしを見つけて、わたしの傘をぐいっと持ち上げてまで挨拶をしたらしい。信じられない。
あはは、
笑うしかなくて、わたしも、顔を上げて「Ciao」と言った。
いいひとだ。わたしが決してそのレストランの席についたことがなくても、わたしが小さなチーズやハムが半額の時に買いに来ているのを彼は知っているのだ。
そのあと少しこの辺に住んでいるの? ーそうだよ、 といったような会話をして別れた。毎日通る道がまた、好きになる。
次はCiaoの後に続けてCome staといってみようか。
お仕事を頑張って今度はお友達と思い切ってここでお食事してみようか。
そしたら帰り際にArrivederciといってみようか。
喜んでくれるかな。
挨拶から広がる色々なワクワク、あのおじさんの焼くピザみたいに、気持ちがふかふかに膨らむ。
偶然か奇跡か、行く場所行く場所でに出会う人に、助けられて、生きてきた。これからわたしもなれるかな。ケンジントンの太陽みたいに。雨も降るけど、みんな、太陽を待ってる。ケンジントンの肖像は、今日もみんな素敵。
2024年6月29日
Hana
月に1、2本程度は大好きなケンジントンのこと、ふらっと旅した国々のこと、愛する建築や美術のこと、書いて行けたらいいな。これからよろしくお願いします。
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