見出し画像

異なるものを感じるとき

琉球展を見に行った。
着物好きとしては琉球の衣装目当てだったけれど、
結論、沖縄は、琉球は、いわゆる日本史とは異なる歴史を持っていて、まごうことなき異文化だった。

もちろん義務教育で習うようなことだけど、知っているかどうかではなく、感じたことがあるかどうか、という問題。


沖縄復帰から50年。
「復帰」の意味を考え込んでしまう。
独立した国家として発展してきた歴史は、沖縄県、そして琉球王国のもちものだ。

異文化を利用するということ

交易によってもたらされるものはいつだって貴重で魅力的だ。世界を狭くしたグローバル化で少しありがたみが損なわれてしまったかもしれないけれど、琉球の布を目当てに行った私は、紅型や芭蕉布などの織物を目に焼き付けてきた。

紅型(型染の布)の衣装。撮影可エリアにて。


沖縄では独自の技術で作られたが数多く存在する。強い日差しと暑さに耐えられるように、また、独自の美しい風景を表現するように。

ただ、紅型のいわゆる「着物」は現地で使われることはなかったはず。琉球には琉球の衣服があるから、明らかに日本で使われるためのものだ。

個人的には紅型の袷の振袖、素敵だとは思うけど違和感を感じなくもない。(袷とは裏地のついた着物で、秋、冬、春の寒い時期に着るもの。一般的に成人式や卒業式に着る振袖とかはたいてい袷。)
例えるなら冬用のアオザイみたいな。
紅型は沖縄の太陽の下で最も輝くものだと分かっていても、冬の日本で着たくなったんだろう。

北海道の昆布は北前船に乗って沖縄料理にも使われた。
魅力的な異文化を借りたい人間のエゴが歴史にどれだけ多くの新たな輝きをもたらしただろう、とか、考えずにはいられない。

壊された仏像


太平洋戦争時、沖縄戦によって破壊された仏像も展示されていた。個人的に一番印象的だったのはその仏像だった。
大事にしていた人の思いを無視して壊されて、そのままの姿で今も存在している。

武力によって自分とは異なるものを支配しようとすることの結果であり、戦争の一面。今まさに世界で同じことが起こっているという痛みを伝えるものであるのは間違いない。

戦争とは、他者が大切に育んできたものを踏みにじること、あるいはそれが容易な状態である。


戦争はいつだってもっともらしい言い訳を見つけることからはじまる(と私は思っている)。
武力による解決に対し正当性持たせることがいかに難しいか、いかに論理的意味を持たせにくいか、そんなことを考えた。


今日は、沖縄慰霊の日。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?