鏡合わせの女達が教えてくれたこと
あなたは、右利きですか?それとも、左利きですか?
左利きの割合は全人口の10%程度とよく言われるので、左利きは少数派、右利きが多数派。
私は右利きなので特になんの苦労もなく、箸も鉛筆もハサミも右手を使っている。
右利きが多数を占める世界だということを気に留めることもなく、生きてきた。
そういうことに気づかせてくれた、親愛なる友人たちへ。
少数派が少数派ではなくなる瞬間
大学時代は友人3人と一緒に過ごすことが多かった。
私を入れて4人いるうち、右利きが2人、左利きが2人という組み合わせだったので、50%が左利き。世の中の通常の利き手のバランスより左利きが多い。
この中においては右利きは多数派ではないし、左利きも少数派ではなかった。
すると、食事をするとき、お箸が鏡合わせになる。
4人がけのテーブルに座るとき、利き腕同士がぶつからないよう、左利きの二人が気をつけて席についていたからだった。
ランチの席選びには、右利きが知らないテクニックが隠されている。
しかも、ここでは右利きが多数派ではないのに、右利きである私は「利き手がぶつからないように」などという気配りもできないし、気配りしてもらっていたことにも気づけない。
利き手がほかの多くの人と違うという状況を知らないからだ。
同じ社会を生きていても、自分が多数派の社会しか見ていなければ、どんどん気づけなくなっていく。
視界に映っていないのではない。
存在しないものとして処理されている。
刷り込まれて見えなくなっているものは、どれほどあるのだろうか。
気づかないまま快適な席次を提供されていた私は、自分の生きてきた社会の狭さを知った。
プラスでもマイナスでもないところに立っていられるのは、特権である
マジョリティの特権とは、何か特別なポイントが付されるとかそういうことではなく、特別に何かを気にしなくていい、という地点からのスタートが常に許可されていることだ。
右利きの私は、特権に無自覚でいられただけだった。
単に自分の属性が多数派だっただけだった。
右利きが多いから、右利きに使いやすい世界になっていくのは当然だ。それは右利きが優れているとかいう理由ではない。
腕が2本ではない人が多数派の世界では、たぶん私は生きづらい。
この友人たちに出会ってから、「障害とは社会の側のシステムの障害である」という言葉の意味をやっと理解した。
令和の社会では「多様性」という言葉が幅を利かせている。
でも、世界は多様になったのではなく、もともと多様だったはず。
今見えていない世界を見ようとすれば、私の世界はもっと豊かになっていくのかもしれない。
そして、今も、まだまだ見えていない思い込みがあることにすら気付かず、生きているのかもしれない。
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