見出し画像

くろちゃん、しろちゃん

横浜には、ぶち、黒、トラ、とたくさんのねこがいる。店で飼われている看板猫だけでなく、野良猫たちも同様にみなまるまると肥えていて、重たそうな腹をゆさゆさ揺らししながら優雅に歩いているのを見ると大変微笑ましい気持ちになる。なぜかというとこっそり餌やりをしている人たちがいるからで、わたしも決まった時間にやってきてはいくつも餌の皿をならべるひとびとの、その甲斐甲斐しいようすを度々見かけることがある。それについて市のひとびとはうるさく言うようだけれども、行政は人々の内情は知るよしもなく、やはり下町の人情というもので結局町は成り立っているのだなあと思う。

わたしには仲良くしてもらっている黒猫がいる。友人の家を訪ねた帰り、ちいさな白黒の牛柄の猫がついてくる。こちらが歩み寄ると逃げる素振りをするが、なんだか影法師のようについてくるのがいじらしく、帰ることもできないでいた。すると、大きな黒猫がひらりとどこかからやってきて、わたしに体をすり寄せてきた。警戒心の強いのらねこたちが見ず知らずの人間に体を委ねてくるというのは大変うれしいことである。その愛らしさに時々涙が出そうになるほどだ。しばらく黒猫をなでていると、後ろで覗いていた牛柄のちいさなねこが再びおそるおそるやってきた。そしてようやくわたしにすり寄ってきてくれた。

これがどういうことかということが後々わかった。黒猫と牛柄の小さなねこは一緒に暮らしているらしい。兄弟なのか親子なのか、どこに住んでいるのかという素性はわからないけれども、いつも一緒にいる。そして、黒猫が牛柄のねこの代わりに餌をもらってきたり、時々パンチで教育しているところを見ると、警戒心の強い怖がりの猫を黒猫が面倒を見てやっているらしいことがわかった。猫という生き物は言葉を喋らない、だからこれは人間であるわたしの勝手な察しであったかもしれない。けれども、わたしには、黒猫は自らすり寄ってきて牛柄のねこに「こいつは大丈夫だ」ということを大きな背中でもって、たしかに教えていたように思えた。わたしは大きな黒猫の賢さと面倒見の良さに大変恐れ入った。以降わたしと友人は敬意を込めて黒猫をマスター、と呼んで追いかけている。

昔の恋人は黒猫を飼っていた。もうおじいさんで半野良のあの子は、白髪混じりでところどころ喧嘩の傷と毛の剥げているところがあったが、実に人懐こく、また歳を重ねたゆえの貫禄があった。しなやかで、筋肉のついた美しい黒猫であった。反対に、わたしの家には白猫が三匹いる。人懐こい子が多い黒猫とはまた反対に、白猫たちは概して人々を簡単に寄せ付けない気高さと黒猫とはまた違う賢さがある。

我が家の白猫がやってくる前、体の大きな白猫がやってきたことがあった。目は美しいオッドアイで、白猫にしては珍しく、野良と思えないほど人懐こかった。多少体は汚れているものの、オッドアイの美しい白猫を見て、多感な頃のわたしにはその猫がまるで妖精のように見えた。しばらく撫でていたがスーパーへ行く前だったので「やだ、きたない!早く行くよ!」と、母に急かされて車に乗った。その日別れて以来、その大きな猫を見かけなかった。その数週間後に我が家にかわいい白い子猫がやってきた。近所では大きな白いオッドアイの白猫以外、白猫を一度も見たことがなかった。ちんまりと座って餌を待つ子猫は、あの大きな白猫の子供に違いない。わたしはあの大きな白猫が子猫を預けに挨拶に来たのだ、と律儀な猫に感心した。

きたない!と母は言っていたけれども、最初にその白い子猫にメロメロになったのは紛れもなくわたしの母である。野良だった白い子猫は、なんだかんだあり我が家に住み着き、家族となった。やがて子猫が生まれ、三匹の白い猫が我が家の家族として元気に育ってくれた。一人一人性格は違うが、みな父親のねこと同じ色のオッドアイで、人懐こいところはあるものの、いざ家族になると過度な干渉を嫌い、容赦なく猫パンチを見舞う、気高く美しい自慢のねこたちである。ペットは飼い主に似るという言葉がある通り、時々、我が家のねこの写真を見せると「あなたに似ているね」と言われることがあり、とてもうれしい。父親の猫にもう会うことはないけれども、わたしこそかわいい白猫と出会わせてくれてありがとうと伝えたいほどだ。

ねこという生き物は、時々作家が思索するような厳しい表情を見せたり、かと思えばなまあくびひとつしたあとで旅人のようにどこかにふらりと出かけたりと、知れば知るほど本当に不思議な生き物である。撫でようとすれば逃げるし、話しかけてもわかっているのかわかっていないのか、知らん顔をしているかと思えば、餌をねだりすり寄って、可愛らしい声で甘えてきたりなどする。なんて勝手な生き物だ!と思いながら放って置けないのは、ねこがやっぱりかわいいからだ。こんなに外が暑いと黒猫のマスターも牛柄のねこも見かけないが、水の入った容器が置いてあったのを見てわたしは安心した。どこかすずしいところで休んでいるのだろう。安心してねこが暮らせるのは、地域の人が皆すすんでねこを守り、時々面倒を見て、可愛がっているからだ。わたしは人々の、マスターを見つめる優しいまなざしと、体を撫でる優しい手つきを見るのがうれしい。わたしも時々、車の下をかがんで覗き込み、道路の端へ目を凝らし、ねこたちをさがしている。見つけて撫でながら、喧嘩しちゃだめよ、たくさんお水飲みなさい、人懐こいのはいいけれど変な人についていっちゃだめよ、と母親のようになにかと口うるさくなってしまうが、どのねこであっても、みなおのおの自由気ままに幸せな暮らしをしていてほしいと切に願っている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?