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分かりづらい特性

1.大丈夫じゃない‥

いつも決まって私は、“大丈夫?”の言葉に対し、断る事もなく‥“大丈夫です”と、何ともないフリをしながら周囲に合わせる事に必死でした。
自分が出来ない事でも、“何かを伝えたいけど何をどう伝えたらいいか分からない”
“出来ない人だと思われたくない”“こんな事で分からないのは、恥ずかしい事”だと、健常者として働いていた時は、常にそのような事を思い込んでいました。今、思えば‥変なプライドが少なからずあったのかなあと‥(笑)
過去に成功体験が少なかった為か、自然と変なプライドが身についてしまったのかもしれません。
診断されるまでは‥。

仕事はいつも同じような事でつまずく事が多く、同じ注意や指導を受けても、相手を怒らせてばかりでした。申し訳なさと、何度も同じ事でつまずき出来ない自分自身にイライラしたり、落ち込んだり‥とにかく心が落ち着きなかったです。
一般の社会はあまいものではなく、仕事を覚える事に遅れのあった私は‥上司からいつの間にか、腫れ物のような扱いを受けるようになっていました。
自分でも心当たりはあったのですが、まぁ‥当然ですよね‥。(苦笑)
分からない事が分からぬまま大丈夫と答えてしまう、疑問に思う事がない(仕事に対して気づき等がない)、コミュニケーションが上手く出来ない。等と数多くの困難さを感じていました。
何故、こんなにも生きづらいのかな。そんな事を感じるようになっていました。
当時は親に相談するも、奥底の本音を上手く話す事が出来ず、我慢をするようになり‥いつの間にか、合わない環境に身を置く度に、身も心も限界に達してしまいました。

2.鬱・適応障がい

いつしか自分の仕事に自信が持てなくなり、20代の頃の福祉の仕事への誇りを持つ自分自身の事を信じられなくなっていきました。人間に対しても、仕事に対しても恐怖心を抱くようになり、眠れなくなったり、楽しいはずの趣味も心から楽しめなくなり、笑顔も日常から消えていきました。このままじゃ、いけない‥と思い、初めてメンタルクリニックへ行きました。初めて診断された時は、“うつ病”でした。有り難い事に、薬はまだ飲む程深刻ではなく‥思いきって苦しい環境から離れる事で、当時は回復するのも早かったです。3ヶ月程休養し、知り合いの紹介でまた新たな環境へ転職しました。
最初は体を慣らす為に、初任者研修の資格を取る為、スクールに通いながら午前中のみのパートでした。初任者研修修了後に、契約社員として採用され、昨年の1月中旬までなんとか頑張りました。
なかなか、満足に休日も休めず、人材不足の為に誰かが急に休む度に、自分のシフトが休みの度にしょっちゅう携帯が鳴り、急遽出勤になったり‥休みが減る事がしばしばありました。昨年の秋頃から、体調に不調を感じるようになり、原因不明の発疹が出たり、とにかく毎日が苦痛でした。
仕事にも支障が出始め、昨年の1月中旬から急に体が動かなくなり、涙も止まらなくなり‥何かがぷつんと糸が切れたような感覚に陥り、休みの連絡を入れて病院へ通院しました。その際には、“適応障がいの鬱状態”と診断され、先生からドクターストップがかかり、心も悲鳴をあげており、この時の私は社会の常識より自分の心を優先してしまい、社会人としては程遠い辞め方をしてしまいました。最後の最後に、チクチク言われてしまいましたが‥何とか退職届と診断書を受理され、退職する事が出来ました。
最後に言われた言葉は、“お前みたいな人は、どこに行っても通用しない”でした。
しこりを沢山残してきてしまいましたが、最終手段を取った‥という感じです。最後の言葉は未だに悔しいですが、離れて正解だったと今なら思えます!
けれど、この言葉の呪いが未だに解けていません。
これから乗り越えていかなければならない数々の言葉のトラウマ‥。ここからが、本当のスタートなのです。

3.発信する意味

私が想いを発信する意味‥。それは、今まで社会でつまずいたりしてきた事の裏で、目に見えづらい困難さを抱えてきていた事をありのまま、今までの壮絶な経験を踏まえながら‥もっと多くの人に知って欲しいという強い思いと同時に、軽度の知的障がいへの理解がもっと深まって‥誰もが様々な特性を受け入れられ、多様性が認められる社会になっていって欲しいという思いから、私は発信しようと思いました。
口頭で直接、気持ちを言語化する事が苦手な分‥これから、少しずつnoteやSNSを通じて自分の想いを伝えていきたいです!

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