「ラーゲリより愛を込めて」がとても力強い
"わたしは独りじゃない"
曖昧な確信が今までどれだけの人を生かしてきたのだろう。
「硫黄島からの手紙」「母と暮らせば」
数々の戦争モノでジャニーズの俳優史に名を残し続ける二宮くん主演というのだから、観に行かない理由がなかった。
生と死、ノンフィクションという特性上、
泣かせにくる映画でないもの作るほうが難しいジャンルであり、
観る前から感動すること、が決まっているのに
こうもなぜ戦争モノをみると涙が出てくるのだろう。
いいとわかっていて観た「ラーゲリに愛を込めて」のよかった部分についての備忘録をとろうと思う。
(ネタバレを含みます)
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この映画を観た後、ディズニー映画「リメンバーミー」が頭をよぎった。
「本当の死、とは誰にも思い出されなくなった時」
まさに主人公の山本幡男は「まだ生きている」と思った。
そしてそれはまた一種の綺麗事であるとも思わざるを得なかった。
ラーゲリで生きる彼らは家族に会いたい、という
死んでしまっては叶わないあまりにも切な希望を共通点としていたのだ。
恵まれてはいないけれど、決して独りではなかったのではないだろうか。
そしてまた、日本で帰りを待つ彼らの家族も、いつか帰ってくるという希望を共通点とし、決して独りではなかったのだろう。
「自分が生きたい」という利己的にも見える願望は
実は、利他的な、だれかのための、
切なる願望であるのかもしれない。
心に残った台詞があった。
松坂桃李演じるマツダの
「ただ生きているだけでは、生きていない」という台詞。
病床の山本を助けるための行動を決意したときの台詞だだった。
このときのマツダは「希望」であった母の死を知り、
生きねばという願望を失っていた。
そんなマツダにとって、山本の明るさが、そして、
山本の「家族との約束」を叶えることが
マツダのわずかな「希望」となりえたのだろう。
それはマツダにとっての山本が「独り」でないようにしてくれるからなのだろう。
全く違う感覚をもつ人と人が暮らすこの世界は
そうやって利己と利他が、ぎりぎりのすれすれ微妙なバランスのなかで成り立っているのだ。
物理的な「生きる」と心理的な「生きる」は
必ずしも同じ意味を持っていないのだろう。
しかし、自分にとって大切な人が「生きている」ということ、
この曖昧なような確固たる「孤独」への不確信が人を生かし続けていており、
わたしたちはとにかく利己的でも「生きなければ」ならないのかもしれない。
自分のために、そして、だれかのために。
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