見出し画像

刀剣博物館で見る明石国行

2019年6月1日 東京都墨田区の刀剣博物館で「国宝 太刀 銘国行 号明石国行」が展示されていました。

明石国行を打った刀工 来国行(らいくにゆき)は山城国の鍛冶集団 来派(らいは)の実質的な祖とされています。

鎌倉時代中期、モンゴル帝国によって行われた日本侵略(蒙古襲来)をきっかけに今まで以上に戦場で使いやすい刀の需要が高まります。

来派はより実戦向きの刀を作るため、鎬地(しのぎじ)に樋(ひ)を入れて刀の軽量化を図り、質の違う鉄を場所によって使い分けることで切れ味が鋭く折れにくい刀を作りました。

しかし明石国行は刀身の状態が非常に良く傷も無いため、実戦で使われなかった説が有力です。

鎬造、庵棟、中反りが深く、身幅広く、重が厚い。
三日月宗近や童子切安綱などの平安太刀と比べると力強い姿。でも山城(京都)の刀なので、どこか品があるような気がします。

刃長:76.5㎝ 反り:3.1㎝
特別展京のかたな図録

刃文は直調に小互の目と子丁子を交えた小乱れ刃。足葉入り金筋かかり小沸つく。
地鉄は小板目がわずかに肌立って細かい地沸がつき「来映り」と言われる淡い沸映りが現れる。

沸でキラキラした潤いのある板目肌が美しいです。

刀身表裏に樋を掻き、樋中に三鈷剣を掘り込んでおり、表裏に同じ彫物があるのは珍しいそうです。

ハバキには越前松平家の家紋である「丸に三つ葉葵」徳川家康は徳川御三家以外がこの紋を使うことを禁止していますが、越前松平家は使用が許されていたようです。

このハバキはいつ頃作られたものなのだろう?
徳川家の葵紋は年代によって少しずつデザインが変わります。家紋の本で確認したところ、この紋のデザインは後期よりも初期に使用されていたものに近い気がします。

鋒はやや寸が詰まって、猪首鋒。
帽子はのたれて大きく掃きかけ風に丸く返る。

貴族から武士の世に変わる中で、刀が武器として広く使われるようになった時代。
明石国行はその時代背景を反映するような優雅さと豪壮さを合わせ持つ刀です。

名前は播磨国明石藩 越前松平家に伝来したことに由来しますが、どのような経緯で松平家に渡ったのかははっきりしないそうです。

もし実戦で使われていたらすごい逸話が残っていた気がしますが、綺麗なまま残っている姿を観れるのも有り難いので、使われなくて良かったのかな。

刀剣博物館の展示はとても見やすく、撮影可能な展示では写り込みがなく刀が綺麗に撮影出来ます。
私は何度か違う場所で明石国行を見ているのですが、刀剣博物館で見た明石国行が一番綺麗に見えました。

さすが刀剣専門の博物館です。

参考文献
・特別展京のかたな図録  読売新聞社,他発行 2018.9.29発行 90P
・日本刀鑑賞講座(改訂版三) 佐藤忠志著 2019.11.1 7P
・国指定文化財等データベース



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?