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博物館をめぐる旅 6days (その5 旅3日目)

その1からその4まではこちら。

旅の3日目は金沢。

もともとは金沢に長時間滞在するつもりは無かったのだが、福井県立恐竜博物館の休館日との兼ね合いで、金沢でいろいろ見て回ることにした。(その1参照)

泉鏡花記念館

金沢に立ち寄った大きな目的の1つが、泉鏡花記念館だ。

僕は高校時代の末期に泉鏡花にハマり、泉鏡花を深堀りできそうな大学ばかりを受験して、結果、卒論も泉鏡花で書いたという、泉鏡花に捧げた大学生活を送った。

そんなわけで、『文豪ストレイドッグス』の鏡花ちゃんを見るにつけ、ちょっと複雑な思い(「実際の泉鏡花はただの潔癖症のオッサンだぞ」など)を抱くわけなのだが、織田信長ファンに比べれば陵辱度合いも非常に小さいのでまだ良しとするべきなのだろう。

閑話休題。

そんなわけで、金沢では朝一で泉鏡花記念館を訪れた。

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ここは、泉鏡花の生家の跡地でもある。

門をくぐると、館の入口と、鏡花父子の像がある。

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像の子供のほうが泉鏡花である。本名・鏡太郎。
鏡太郎9歳のときに母が亡くなり、父も20歳のときに亡くなってしまう。
父が亡くなったことにより一家の収入が途絶え、若かりし頃の鏡花は生活苦にあえぐのだが、その話はまた後ほど。

もう、この銅像を見ているだけで泣きそうになる。

館内は撮影禁止のため、写真を手元に残すことは叶わなかったが、展示の一つ一つが、学生時代に学んだことだらけで、ただただ懐かしい。

内縁の妻・伊藤すず(鏡花晩年になってから入籍。元々は芸妓で源氏名は桃太郎)お手製のキセルの吸口のカバーの現物や、鏡花の亡母憧憬の象徴である摩耶夫人像、文字に霊魂が宿ると本気で信じていた鏡花の几帳面な文字がびっしり並んだ直筆原稿など、写真でしか見たことが無かったあれやこれやがズラリと展示されていて、いちいち泣きそうになる。

泉鏡花作品の中の随一の名作(と僕は思っている)『春昼』に登場する情景のジオラマに至っては、「嗚呼、こうであったのか!」と、胸が高まる思いであった。

ミニシアターでは、卒論を書くに当たって著書を参照させていただいていた種村季弘先生や川村二郎先生や、僕が泉鏡花にハマるきっかけとなった坂東玉三郎様による、それぞれ10分以上の語りの映像が流されていて、これも涙無しには見ることができない。

平日ど真ん中の午前中から変なテンションになってしまう。

それにしても、と、ふと思う。
泉鏡花は地元・金沢を随分嫌っていて、随筆の中でも「加賀っぽ」のことをめちゃくちゃにコキ下ろしているのだが、金沢の人は泉鏡花を「地元が生んだ文豪」と称えるときに、心のなかでどのような折り合いをつけているのだろうか。(要らぬお世話なんだろうけれど。)

ひがし茶屋街

金沢には古い町並みがたくさん残っていて、ひがし茶屋街もそのひとつだ。

泉鏡花記念館からもほど近いし、徳田秋声記念館もその近くにあることから、ちょっとブラついてみることにした。(ただし、背中にはおよそ12kgの荷物を背負っている。)

ブラつくといっても、特に具体的な目標物があるわけでもなく、町並みを眺めて歩くだけである。
観光地なので、金沢ならではの金箔関連商品のお店や、茶屋を改装した小洒落たカフェなどがあるのだが、貧乏旅行の僕には縁の無い場所である。

というわけで、本当にブラブラするだけになってしまった。

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こんな感じの町家が並んでいる。

ただ、そんな町家よりも、通りすがりのネコに目が行ってしまう。

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金沢では、ネコを見かけることが度々あった。サビネコや黒ネコと暮らしたい人生だった。

徳田秋声記念館

ひがし茶屋街の外れ、浅野川という川のほとりに、徳田秋声記念館がある。

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徳田秋声も金沢が生んだ有名作家の一人である。
生前、泉鏡花とも接点はあった(共に尾崎紅葉門下である)が、親しくはなかった。
作風も(というか、世界線そのものが)大きく異なるし、泉鏡花は自然主義文学を心の底から嫌っていたから、当然といえば当然である。
僕も、自然主義文学は嫌いなので、徳田秋声もあまり好きではない。
が、せっかく金沢まで来て、しかも近所をブラブラしているのに、徳田秋声記念館に立ち寄らないというのも気が引ける。
そして何より、泉鏡花記念館、徳田秋声記念館、室生犀星記念館の3館を回ってスタンプを押してもらうと景品がもらえるというスタンプラリーが開催されていたのだ。立ち寄るだけ立ち寄ろう。

が、やっぱりあまり好きではなくて、20分ですべて見終わってしまった。。。徳田秋声ファンには申し訳ないことだ。

ランチ

徳田秋声記念館を出た頃には、もう昼だった。

そろそろ腹も空いたことなので、金沢城公園方面へ歩きつつ、適当な店に入ってランチを食べた。

が、完全にハズレ(地元では人気店らしいが)だったので、割愛する。

金沢城

金沢城公園には、大手門から入った。

石垣が非常に立派だったのだが、特に鏡石が縦長なのが非常に珍しかった。

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こんなに薄くて縦長な石を石垣に使ったら、攻めてきた敵軍に簡単に倒されてしまうので、あまり見ないタイプの鏡石である。

さて、金沢城址は、天守閣こそ無いものの、櫓の類はいろいろ復元されているので、城好きでなくとも見ごたえは十分だ。

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二の丸に入る門に設けられた枡形。

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二の丸から本丸方面に向かうと、三十間長屋という建物が現れる。(国指定重要文化財だそうだ。)

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他のお城だと多聞櫓と呼ばれるような施設だそうなので、戦においては兵士の詰め所として使われる建物だったのだろう。

本丸に進むと、そこはすっかり森であった。

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櫓の跡地だけ、開けていた。

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本丸の櫓(本丸の角に建っていた櫓であって、天守ではない)があった場所だけあって、眺めは良い。

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たしかにこれなら、三の丸、二の丸に敵が攻め込んできた場合にも、状況がよく見渡せるだろう。

さて、それでは天守はどこだという話なのだが、どうも天守は1602年に焼失したあと再建されず、代わりに建てられた三階櫓も1631年に消失して、その後は本丸には御殿しか建てられなかったらしい。
天下泰平ってことなのか、財政がキツかったのか、それとも幕府に目をつけられてしまうのを恐れて再建しなかったのか。もしかしたらその全部かもしれない。

別な方角にある櫓跡(丑寅櫓跡)からも眺めは良く、兼六園方面が見えた。

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ここから、次の目的地を目指して、石川門方面に降りていく。

すると、辰巳用水で使われていた石管が展示されていた。

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金沢城のお堀の水は、兼六園からこの管を使って引いていた。
といっても、兼六園と金沢城の間は谷地になっていて、二の丸の堀にまで水を流すにはただ直線的に水路を作れば良いということではなかった。
そこで、標高の高い兼六園との標高差を利用して、サイフォンの原理を使った用水を作ったのである。(って、『ブラタモリ』で言ってた。)

さて、石川門まで来ると、城の最も外側の塀を見ることができる。

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壁には狭間が設けられていて、これぞまさにお城といった趣き。

石川門を出ると、

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目の前には、金沢城公園と兼六園を結ぶ橋がかかっている。

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この橋の下には「お堀通り」という道路が通っているのだが、この場所こそまさに、僕にとっての金沢での最大の目的地なのだ。

百間堀跡

かつて、兼六園と金沢城の間には百間堀というお堀があった。
そこは、今では埋め立てられて「お堀通り」という名の道路になっている。

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その「お堀通り」を見下ろしながら、かつてそこにあった百間堀に思いを馳せる。

というのも、この百間堀こそ、若かりし頃の泉鏡花が生活苦のために身投げを企図した場所なのだ。
夜中にこの堀端に立ち、黒い水面を眺めながら逡巡をし、結局は自殺を思いとどまる。そんな切羽詰まった鏡花を思うだに、心を締め付けられるのである。

もはや、鏡花が見つめたその水面を想起させるものはどこにも無い。
それでも、この場所に来て、この場所に立つことが、自分に課せられた義務のように思い続けてきた。
そのウン十年来の心の引っ掛かりとなっていたこのことを、ついに果たすことができたのである。

兼六園

正直僕は、日本庭園は全然分からない。毛利庭園も、根津美術館の庭園も、浜離宮も、「ふーん」ぐらいにしか思えないのだ。もちろん、京都のお寺の庭園なども同じなので、京都旅行はいまいち足が向かないのである。

そんなわけで、兼六園の中にはそれほど興味も無いのだが、ここまで来て日本三大庭園のひとつを見ずに帰るというのももったいないので、入るだけ入ってみることにする。(入園料が320円かかるけど。)

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兼六園は標高が高いので、入るとすぐ見晴らしの良い場所に出る。

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遠くの山を景色の一部にしているような作りだったので、「これが借景ってやつか?」とも思うが、当たってるのかどうかもよく分からない。

そして、いかにもな池。

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綺麗だとは思うものの、これなら北アルプスの鏡池の方が絶景だったりするからなぁ、などと無粋なことを考えてしまう。ジャンルが全く違うので、比べても仕方がないのだが。

(参考画像:北アルプスの鏡池↓)

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そんなわけで、早々に兼六園を出て、室生犀星記念館に向かう。

徒歩で向かったのだが、途中、東急スクエアの角を曲がって南下した際、どうやら金沢の地元の遊び場はこの辺っぽいぞ、ということに気付いた。
香林坊という地域らしい。

ここまで歩いた経路は、なんとなくお高くとまった雰囲気(「なんでランチの値段設定が東京の銀座とか表参道より高いんだよ!」など)で好きになれなかったのだが、ここに来てなんとなくホッとして、金沢の町を受け入れられる気持ちになった。
ホッとしたついでに、コーヒーブレイクを入れて生き返りもした。すでに腰が限界に近かった。

室生犀星記念館

室生犀星記念館は、金沢駅や兼六園から見て犀川を渡ってすぐの場所にある。

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室生犀星の生家(すなわち室生犀星記念館のある場所)が犀川のすぐ近くであったことが「犀星」というペンネームの由来だということだ。

ちなみに「犀星」の「星」の字は「西」の当て字で、同郷の作家に「犀東」という犀川の東側出身の人がいたから、それにあやかって「犀西」(犀川の西側に生家があったから)、転じて「犀星」となったそうである。(って、室生犀星記念館の展示に書いてあった。)

そんなわけで、犀川を渡ってすぐに室生犀星記念館に着いた。

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泉鏡花や徳田秋声に比べて、やたら近代的な建物である。

ここで、スタンプラリーをコンプリート。
景品であるオリジナルブックカバーを貰った。

さて、室生犀星といえば有名な詩「小景異情 その二」がある。

ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしや
うらぶれて異土の乞食となるとても
帰るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこにかえらばや
遠きみやこにかえらばや

どのような思いを故郷・金沢に抱いていたのだろうか。
なぜ、「うらぶれて異土の乞食となるとても 帰るところにあるまじや」と思ったのか。
室生犀星について詳しくない僕には何とも断じることはできないが、泉鏡花のように単純に嫌っていただけというのとも違うような気もする。

長町武家屋敷跡

室生犀星記念館から金沢駅へ向かう途中に、長町武家屋敷跡という、武家屋敷の景観を残す地区がある。
せっかくなので、見物がてらそこを通って金沢駅へ向かいたい。
とはいえ、そんなに時間の余裕も無いので、本当に通り抜けるだけなのだが。

そんなわけで、前田土佐守家資料館を素通り。

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金沢市老舗記念館も素通り。

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路地はちょっと覗いてみたりする。

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武家屋敷跡(野村家)も素通り。というか、すでに入館受付を終了していた。

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高田家跡はちょっと覗いてみた。

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立派なお庭。

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長町武家屋敷跡地域は、丸一日歩き詰めで痙りそうになるふくらはぎを引きずり、すっかり肩に食い込んでいる40リットルのバックパック背負い直しながら駅へと急ぐ道すがらに立ち寄るような、チープな場所ではなかった。
再訪する機会があれば、もっと時間と心と体力に余裕のある状態で来たい。

金沢から福井へ

膝やふくらはぎや踵の痛みを我慢しながら金沢駅に到着し、JR北陸本線で福井へ向かう。

前日の金沢行き電車で座れなかった失敗を繰り返さないために、発車15分前からホームで並んで万全を期したが、それでも席に座れたのはギリギリだった。恐るべし帰宅ラッシュ。

18:54、定刻通り福井駅に到着。

ホテルにチェックインし、荷物を放り投げ、夕飯を食べに出かけた。

その道すがら、福井駅名物の恐竜ロボットを見に行く。

竜脚類、どかーん!

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フクイラプトル、どーん!

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フクイサウルス、ばーん!

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こいつら、動くし、雄叫びも上げるのだ。めちゃくちゃ金がかかってる。

そして、3Dアートのトリケラトプス、どばーん!

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フクイサウルスとフクイラプトルも、またまたどーん!

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さすが恐竜立国・福井。気合の入り方が違う。

これにてこの日の行程はコンプリート。

もうヘトヘトだ。いよいよ明日は恐竜博物館。さっさと就寝して英気を養うことにした。

その6につづく)

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