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多次元と全知全能|エッセイ

私は、SFが好きです。今日は、SFを読む、観るうちに考えずにはいられなくなった、私の仮説について話そうと思います。

多次元の魅力

多次元の捉え方は、さまざまあると思います。
行列のような数学的な多次元、相対性理論で登場するような物理的な多次元、超次元的空間など。

SFにおける4次元移動や異なる次元の移動は、理論的には証明されておらず、空想の域を出ません。

しかし、なんと魅力的なことか。

インターステラーや2001年宇宙の旅のようなSFには心が躍ります。

あながち空想とは言い切れない、魅力的で説得力のある世界観に魅了されます。

この世界を私なりに発展させて、私の実体験も交えつつ空想を語りたいと思います。

デジャブって?

早速、話は飛びます。「デジャブ」です。
誰しもが、体験したことがあるのではないかと思います。
ただ、その体験の仕方や印象は人によって違うかもしれません。
一般的には、デジャブは認知エラーにより起こるそうです。

が、空想を広げます。
私が「デジャブ」を体験するときは、数年前に夢で見たやつだ!と思います。
「デジャブ」が起こる数年前に、妙に現実的だけど、想定できない状況を夢に見て、起きてからあれ何だったんだろう、とワンシーン写真で切り取ったように記憶に残ります。
それから数年後、「あ!あの夢のシーンだ!」とデジャブを体験するのです。

私は思うのです。
寝ている間に時空間を移動してしまったのではないか、と・・・
寝ている間、意識だけが働いて夢を見ている気がします。
それって、意識と体が分離していると考えると、質量のなくなった意識だけが独立して働いているとも言えるのでは!

質量がなくなると、3次元に囚われず、時空間を移動できるというのがSFの世界です。

私たちは、夢を見ている間、時空間を旅していて、うまく他の時空間の自分の身体を発見すると、意識がリンクして記憶として残るのでは!なんて

書きながらなかなか論理に破綻があるな、と気づいてしまうのが悲しいところ・・・

想像を広げる世界観

デジャブからさらに世界を広げます。
私たちは、体とは別に意識という質量を持たない体の一部を持つと仮定すると、体が動かなくなった後、意識だけが取り残されます。

ここで、少し話はそれますが、「ソラリス」と言うSF小説があります。
「ソラリス」はソラリスと未知の惑星探査にいった人類が未知と遭遇する物語です。
若干ネタバレですが、ソラリスは海で、全体として一つの生体であり、分離することができます。

また、なんの本か忘れてしまいましたが、生命は本来一つの生体であり、それが分離して、今地球上で生体として存在していると語る本がありました。
元々の一つの生体を「神」と名づけるなら、私たちは、神から分離して今いち個体として存在し、個体が動かなくなるとまた神に戻っていくと。

とすると、体が分解され地に戻るとともに、意識も「神」と言う存在に戻るのではないか。

そうすると、神は元々のひとつの生体であると同時に、世界そのものであり、それに戻ると全知全能になるのです。

なので、私たちは、体が動かなくなっても、世界の一部として全知全能の神の一部として存在し続け、また次の分離に備えるとも言えるのではないか。
ただ、全知全能と言うのは、無とも同じです。「神」に戻るが故に個としての意識はなくなり、感情もなくなります。ただそこに存在しているだけで。

ただ、とても希望的な世界観だなと私は思います。
SFから自分勝手に妄想をして、世界を広げて楽しんでいる自己満足です。

自由な妄想は難しいけど、一つの法則に則れば世界を広げることは案外簡単かもしれません。これが創作の第一歩になるのかも。

誰かに読んでもらえるような内容の自信は全くないけれど、もし読んでくれた方がいたらありがとう、あなたの妄想も聴かせてください。


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