向上心の矛盾

向上心には矛盾があるのではないかと最近思ったので、言葉にしていきたいと思います。あくまで自分個人の意見ですが。

向上心というのは、そもそも向上する余地があるから存在しうるものです。そこで言う向上しうる余地というのは、社会的格差のことです。向上心を持った人が目指す対象として東京やアメリカ合衆国があるのは、格差が大きくそれを必要悪として肯定している部分があるからというところがあります(いわゆる新自由主義)。競争社会は夢と現実という言葉を生み、苦しさを抱える「現実」のフェーズに位置することを「自己責任」とする部分があります。

しかし、競争社会では基本的に人は苦しい状態になります。生物は本質的に競争を避ける傾向があり(生物学で使われる適応度という概念がわかりやすいと思います)、競争に参加してしまうとその中での勝ち負けに関わらず苦しい状態になるからです。また、別の視点からも競争社会の苦しさを説明することができます。権利という言葉がありますが、それは大衆が権力に対してある程度の力を持つことで手に入れたものです。競争社会では、対立の構図が権力vs大衆ではなく富裕層vsその他になるので必然的に権力に対する圧力が弱まります。その結果、さまざまなところで苦しさが発生します。

例えば東京では家賃のバブルが発生していて、大して設備がよくなく周辺環境もいいとは言えない場所で、都心へのアクセスがいいという理由で家賃が高騰していたりします(東京は都市圏内の一極集中が激しいので余計)。また、東京都心ではスーパーマーケットは小型のものが多いのですが、それらの場所ではそこまで美味しくなさそうな見た目の肉を高めの値段で売っていたりします。さらに、都心ではタワーマンションやオフィスビルが理解不能な数建設されています。それらの一つ、六本木は自分が今まで見た中で有数のモラル崩壊地域であり、人々が苦しそうな表情をしている地域でもありました。本来人間が住むに適していない環境が経済力学上の原理で「一等地」というラベル付けを受け、価格=価値という本来であればごく当たり前の、捻じ曲げられた前提を信じた消費者の需要が殺到するということが起きています。また、内部事情はわからないので定かではないのですが、金儲けに走る医療行為も多そうだと感じる時があります。

また、個人の権利に対する意識の弱さは人々のマインドの中にも深く埋め込まれます。過度な競争からの離脱を告げることができた社会では、人間一人一人の精神を侵害しないことが常識とされる成熟した社会になりますが(愛知県は比較的そう)、過度な競争を肯定している社会というのは、立場が強い人が立場が弱い人をなじることが正当化されており、人権意識とはかけ離れた言論空間が出来上がります。いわゆる弱肉強食であったり、お金で全てを語ろうとするのはこの状態だと思います。そこでは個人は成熟した社会にあるような細やかで肯定的な自己像を形成することができず、社会的階層と自意識を結びつけがちになってしまいます。

向上心を持った先は豊かな生活であると思いがちですが、前述した通り、必ずしもそうとは限りません。そもそも、上には上があるものです。経済的に豊かになればなるほど敵やプレッシャーが増え、不幸になる要因も増加するのが競争社会です。このような中で向上心を持つ理由現実的な理由というのは、向上心の価値を信じたいからというものに近いと思います。しかし向上の先にあるのはは平穏で幸せな世界では決してなく、不透明さと搾取に満ちた、混沌と死の恍惚溢れる世界です。そのような中で平気でいられるのは、心を持たないサイコパスのような人くらいではないでしょうか?


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