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123話 テンホールズでジャズを①

いつまで経っても「ジャズのなんたるか」がわからないままではあったものの、いつの頃からか、かつて自分が憧れたブルースハーモニカ奏者達が、お得意のブルースのフレージングのまま、ジャズの曲を自然に演奏している様を思い浮かべるようになっていた。
「サニー・ボーイ・ウィリアムソン」、「リトル・ウォルター」に「ビッグ・ウォルター」、「サニー・テリー」に「ジェイムス・コットン」、そしてエレクトリックハーモニカの「ポール・バターフィールド」。数え上げたらきりが無い、自分を夢中にさせた伝説のブルースマン達。
その彼らがジャズを演奏していたとすれば、一体どんなだったのだろうか。それを想像しているだけで、まるでテンホールズハーモニカに出会ったばかりの頃のような、新鮮なワクワクを味わう事ができた。
あの大柄でヤクザっぽいブルースマン達が、バンドメンバーを威嚇するようないかつい立ち振舞いをしながら、ウッドベースや派手に打ち鳴らすドラムのジャズバンドをバックに、遊ぶように音を鳴らしている様を思い浮かべる。時に、それがまるで実際に存在しているように見えて来そうなほどだった。

そこまで来たのなら、もうそれを音楽として実際に具現化すればいいだけじゃないかと誰でも思うだろう。けれど、これが全くそうはいかなかった。思い浮かべられるのは映像のようなイメージであって、肝心な「音」の方は、少しも聴こえては来ないのだ。
それは僕がただの「ハーモニカ好き」であって「音楽家ではなかった」からかもしれない。
曲というものを譜面にまで書きおこせる物理的なモノではなく、お互いに楽しんでいる雰囲気のようなものとしてしか捉えていなかったのだ。
「アドリブで勝負する」と言えば聞こえは良いけれど、どんなリズムに対してどう音を乗せて行くのか、伴奏のコードやベースラインに対してどういうメロディーでアプローチして行くのかなどの具体的なアイデアや引き出しがまるで頭に無く、ただ「流れて来た曲に自然体で乗れれば良い」というような、その場の偶然性だけでそれまで演って来てしまった結果だった。
だから自分のイメージの中のブルースマン達も同様に、バックバンドがジャズの何という曲を演奏しているかでは無く、ブルースでは無いであろう何かの曲を演奏し、それをブルースと同じように気楽に演奏する姿や、自分同様に出たとこ勝負でベンドを効かせたブルージーなサウンドでギンギンに鳴らしているというセッション演奏の姿だけを、安易に思い浮かべていたのだ。

それが頭に浮かぶたび、できる限りすぐにハーモニカを手に取り、そのイメージをなんとか形に出来ないかと吹き始めはしていたのだけれど、いつも全く再現不可能だった。それはそうだろう、何の曲をどう吹くかすらまるで決めてもいないのだから。
僕は、極端に言えば(アドリブのフレーズの最初の一音だけでも出せれば、後は自然とつながって行くものだ)と思い込んでいた。今までがそうだったからだ。けれど、実際にそれを始めた途端、いつだって自動的に今までの吹き慣れた「ブルースフレーズ」を吹いてしまうのだ。
想像から現実に戻る瞬間だった。夢の中ではスーパーヒーローなのに、目が覚めると変身も超能力も消えてしまっているような残念な感覚だ。演り方を忘れたのか、元から知らなかったのかもハッキリしないような感覚、いつもそんな感じだった。

現実に、ブルースマン達がジャズを演奏している作品が、皆無という訳では無かった。極稀にだけれど、数曲くらいは手に入れる事が出来た。
中でもポール・バターフィールドに関してはインストゥルメンタルで演奏している作品も多く、実際に「ワークソング」という有名なジャズ曲にもチャレンジしているアルバムがあった。
この曲自体がブルージーで、テンホールズハーモニカに向いている曲と言えた。自分でもジャズとは知らないまでもCMなどで聴いてはいた曲なので、そのアルバムに出会えた時は飛びついたものだった。
けれど、それはハーモニカの演奏曲としてはカッコ良くとも、ブルースマンとしてのスタイルのままジャズの名曲を吹いているという感じで、自分にはジャズと言うより、むしろサイケデリックなロックに近いようなフィーリングに感じられたくらいだった。
以前、BGM演奏をさせてもらっているBarのマスターが聴かせてくれたカントリーミュージシャンの「A列車へ行こう」と同じで、ジャズをやっているという感じはまるでなかった。ジャズ独特の、他の音楽とは全く違う、異質なほどの表現しがたいフィーリングが漂って来なかった。

とにかく選択肢が無いのだから四の五の言ってもいられない。
唯一の手掛かりとしてまずはこの「ワークソング」をコピーし始め、アドリブや掛け合いの部分まで含め、できる限りアルバムと同じように演奏できるまで頑張ってみた。
ポール・バターフィールドのファンになってからというもの、長い月日を掛けコツコツと彼の演奏スタイルのコピーをし続けて来たお陰で、ある程度はその演奏の型のようなものが自分の中に出来ていたので、今までのジャズ曲に比べればまだ理解もしやすかった。この曲を通し、それまでの音楽とは取り組み方を変えようと奮闘する彼の様子まで伝わって来るようだった。
けれど、ハーモニカのテクニックとしての参考にはなっても、ジャズの突破口という気はして来なかった。やがて期待感は消え、この曲への情熱も冷めてしまった。

同じようなパターンであと数曲ほど、ジャズの定番曲をブルースマンが演奏している作品を見付けた。その度同じように鼻息を荒げ、むしゃぶりつくようにその曲を聴いてみるのだけれど、やはり同じようなアプローチで、ブルースマンがジャズの曲のメロディをただテンホールズらしく吹いているというだけだった。
もちろん「ワークソング」と同様、それを一旦はコピーしてはみるのだけれど、結局はどれも同じで、ただジャズの曲を自分のテンホールズでなぞっているだけだった。ジャズという事でスピーディーな曲が多いため、どれも結果的にロック調のような仕上がりになっていた。

一方、それでも自分の中でのイメージだけは、依然として広がって行くばかりだった。
相変わらず具体性はないものの、スラスラと遊ぶように、自分がジャズを吹き続けているイメージだ。曲がどんなに早くとも、またどんなに変化しようとも。
そんな中で、一つだけ、全く別の角度でジャズに関して理解できた事があった。ブルースに比べ、どの曲ももれなくアドリブ部分が馬鹿げて長いという事だ。

ブルースなら1コーラス(12小節)で終わるソロも多い。だからこそ自分は必殺技のように感じていたのだ。僕にとってはそれが普通で、時に3~4コーラスも吹いた日には、もう聴いている側が退屈しているのでないかと、心配にさえなって来る。
ジャズのアドリブパートはどれもダラダラとただ長く、そしてメリハリがない。下手をすれば「ドレミファソラシド」といったスケール練習をしているようなものではと思えるほどで、まだ自分には盛り上がりがわかりにくいせいなのか、メロディーにドラマをまるで感じないのだ。
例えるならブルースのソロは「ブルース・リー」の一撃、対してジャズのソロは「ジャッキー・チェン」のカンフーの組み手のようなものだった。
カンフーにはいろいろな攻撃があり、所々に面白い部分は出て来ても、同じような刺激が続き過ぎて、いずれ退屈に感じて来てしまう。最後には(まだ終わらないの?)なんて不満になるほどだ。
オマケに、メンバーへの気遣いからなのか何なのか、参加している楽器数分だけ、誰もがダラダラと長いソロを続けていたりもするので、聴いているこちらはいい加減うんざりして来る。
もし自分が将来ジャズのバンド演奏をできるようになったとしても、全員のソロ時間に付き合わされるのは勘弁して欲しいと、つい考えてしまう。
それでもできるようになれば、全てが変わって聴こえるものなのだろうか。楽しくてしょうがないからこそ、奏者達はダラダラと長く演っているのだろうから。

自分の中でのジャズは、形がなく、どんどん広がって行くようで、いつまでも全く掴みどころがない存在だった。始めと終わりも良くわからず、盛り上がっているのかどうかすらもわからない。ブルースやポップスに比べ曲全体が長いのは間違いないので、集中力も持たず、最後まで真剣に聴くのも辛かった。

であれば、すでに結論は出ているではないか。単純にジャズは好きな音楽ではないのだ。夢中にもなれず、興奮もせず、いつまでも理解出来ないのだから。
ブルースは最初から好きだった。なぜか気になり、むさぼるように聴いていたのだ。だから理解し、それが吹けるようになった。そして吹けるようになるたび、また夢中にもなったのだ。
それでもまだ「ジャズが吹けるように」ばかりを考え続けていた。それを好きになるためにも。
僕は来る日も来る日も、ただ無駄に苦痛に感じる時間を費やしているだけだった。

つづく


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