頭が良い人とは
頭が良い人というと、どんな人をイメージするだろうか?
私はズバリ、シンプルな人だ。
というと、「どういうことだ?」と首を傾げられることが多いのだが、私はこれ以上ピッタリくる表現を知らない。
なぜ、頭が良い=シンプルになるのか、少しだけ説明したい。
まず、ここでのシンプルは単純ということではない。
そりゃそうだ。単純なら、逆に頭が悪いように聞こえるわ。と思った方、大正解!!
かと言って、簡素ということでもない。
ここでのシンプルの定義は、例えるなら初代iPhone。
つまり、洗練されて無駄がない様だ(あえて初代と書いた理由はお察しください)。
---この時点で、なるほど!と思った方、たぶん私と思考回路が似ている。いや、私と似ていても全く得はないのだが…
とにかく、いわゆる頭の良い人の特長を列挙すると、以下のようになるのではないだろうか。
記憶力が良い、計算が早い、空間把握力が高い、読解力が高い、ロジカル、先の見通しが早い、話が上手い、段取りが上手い…etc.
前半は学生時代、後半は社会人になってから言われがちなことを挙げてみた。もちろん、さまざまな観点があるので、全てではないが、だいたいこんな感じではないかと思う。
では、これらができる、もしくはこれらの力が高いとはどういうことか。
記憶力なら海馬か大脳皮質、ロジカルなら左脳(どの部分かは知らないが)、話力なら…どこだ?とにかく、その力を司る脳の一部に最速でアクセスし、最速でアウトプットすることではないだろうか。
アクセス→アウトプットが、正確かつスムーズに行われるほど、一般的に処理能力が高いとされる。コンピューターを想像していただければわかりやすいだろう。
欲しい情報にアクセスするのにやたら時間がかかったり、その挙句にエラー表示が出たりすると、イライラして思わず「使えないなー」などと声がでそうになるが、これは相手が人間でも同じだ。
頭が良い人は、イライラする間を与えない。
※もちろん、これらはインプットありきの話だが、日本に住んでいれば9年の義務教育を受けているはずなので、一定のインプットはある前提として話を進めたい。
当たり前の話だが、人間の脳はコンピューターより複雑だ。
例えば”三平方の定理”という公式の記憶。コンピューターならファイル名検索で一発だが、人間の脳はそうはいかない。
ちなみに私の場合は以下のようなフローになる。
”三平方の定理”とは
→三角形のやつだよね。→aとかbとか2乗とかでてきたな。→あっ、2乗がでてくるってことは中学生で習うやつだ。→そういえば算数が数学になってから苦手になったわ。→8点とって先生に怒られたんだよね。→何て名前の先生だったっけ?→おっと、それた!三平方の定理だったよね。→でもなんでそんなこと聞くの?→もしかして試されてる?→えー。なんか嫌だなー。→危ない!またそれるところだった!→三平方の定理だったよね。→え〜っと【a²+b²=c²】?(最後は必ずはてなマークとなる)
…我ながらアクセスするのにやたら時間がかかり、その挙句にエラー表示が出そうなフローだ。恥ずかしい話だが、実はこれでも途中をはしょっている。
とにかく、このように、人間の脳では一つの記憶がいくつもの記憶に紐付いている。しかも、その紐付けは本人がコントロールしているわけではないので、予想外のことも少なくない。
結果、たったひとつの記憶にアクセスするだけでいいはずが、どうでもよい記憶も一緒に掘り起こすことになる。そしてそのどうでもよい記憶は別のどうでもよい記憶を掘り起こす。そして、そのどうでもいい記憶の二乗が別のどうでもいい記憶を…
---つまり人間の脳は超複雑なのだ。
にもかかわらず、頭が良い人は…そう、イライラする間を与えない。
あえて私のフローで再現するとこんな感じ。
”三平方の定理”とは
→【a²+b²=c²】…。(当然はてなマークはない)
いかがだろうか。
頭の良い人は無駄な情報を掘らない。だからアウトプットがスムーズ。つまり無駄がない。
というと、頭が良い人はコンピューターってことかと思うかも知れないが、そうではない。
最後の「…」がポイントなのだ。これは言外の余情。
例えば「他にもピタゴラスの定理とも言うね」といった追加情報、例えば「で、それを聞いた理由はなに?」といった疑問、例えば「他にも聞きたいことがあれば遠慮なくどうぞ。」といった提案など、いかようにもとれる”間”である。これが次の会話、つまり発展の余地を感じさせる。
そして、実際の会話では、こちらの反応を上手く読み取り、その”間”に正しい意味を与える。
無理矢理、先のフローに当てはめるとこんな感じ。
”三平方の定理”ってさー
→【a²+b²=c²】…(余情①)。
それなんだけど、うちの子がなかなか覚えないんだよねー
→あぁ、早まったね。ごめん。困ってるって話だね…(余情②)。
無理矢理なので違和感はあるだろうが、会話により、余情①に「この回答であってる?」といった確認の意味が生じている(感じがする)。そして、次の発言でスムーズに謝り軌道修正している。
間違っても「公式を聞かれたのかと思った」というような自己防衛はしない。
これだ。この自己防衛という感情を掘らないことに、私はとても無駄がないと感じるのだ。
そして、余情②があることで、また次の会話での軌道修正が可能となる。
相手の反応から察して最速で軌道修正する、そして次の軌道修正に備る。
もちろん、反応は言葉だけではないだろう。あえて隠すこともあるかも知れない。
だからこそ、この余情は人間でなければ作り出せない。
頭の良い人は、この”余情の間”をさりげなく作り出す。私はそのさりげなさの裏に洗練された美を感じるのだ。だって、自己防衛という感情を削ぎ落としているかもしれないもの。
コンピューターのように早く正確な上に、その返答にはどこか優しさを感じるのだ。
だから、頭が良い人=シンプルな(洗練されて無駄がない)人
よく、周りが頭の良い人ばかりだと、自分の至らなさが際立って心地悪いという人がいるが、私はそんな気持ちになったことがない。
なぜなら、私が思う頭の良い人は、自分の至らなさに気づく間を与えない。彼ら・彼女らとの会話を楽しむと、そんなことを感じている暇がないのだ。
過不足ない会話と、細やかな心遣いを感じる”間”は、むしろ心地よい限りである。
あなたの「頭の良い人」はどんな定義だろうか?
(ねねっち)