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水面下で一夫多妻。

人類社会は、進化心理学的に言っても、やはり一夫多妻が自然な婚姻関係だと思うんですが、それは、女は男をかなり選り好み、選別する傾向があるからですね。いわゆる負の性欲というやつで、男の足切りをクールにやってのけるわけです。結果的に、女はたいてい結婚できるが、男は結婚できないものが出てくる。

その一方で、多数派の哀しき弱者男性に対して、強者男性は女性を多妻化することができるので、あえて品悪く序列をつけるとすれば、

強者男性>女性>弱者男性

となりそうなんですね。

女性は、大半の男性に対して強気に出れるが、どんな美人でも、一生で産める子どもの数はまあ数十人が限界である。しかし男の方は、競争に勝ち続けた場合、産ませられる子どもの数は女と桁違いなわけです。

しかるに、現代では一夫一妻が標準的な婚姻形態である。

一夫一妻は、巨視的には、女性に不利な制度だと言える。必ずしも優れているとはいえない男性ともくっつかないといけないリスクが高まるので。めちゃくちゃ勝っている強者オスの資源分配に与る方を、女性の本能なら選好するかもしれない。

しかし、現実として少なくとも現代社会では、そもそもめちゃくちゃ勝っている人がほとんどいないのも事実ですよね。みんながそこそこ豊かで、そこそこ稼げていて、男の中で比較的平等な資源配分がなされている。結果、勝ちすぎて何人も女を養えるほどの男はいなくなった。また、サービス業社会で女性もちゃんと稼げるようになり、必ずしも強い男性に頼らなくてもよくなったと。

もちろん、格差社会の進展で男性の選別は強まりつつあります。また、現に時間差一夫多妻(一度結婚したが離婚してしばらくするとまた別の女性と結婚する)や、子どもは作ったがのちに夫を「失格」にして別れるシングルマザーの「零夫一妻」のように、実質的な一夫多妻は今日も活発に機能しているように思います。

というか、一夫一妻の普通家庭も、実質的に一夫多妻なんじゃないかと考えたりもします。

一夫一妻社会で、女性は弱オスと一緒になる可能性があるわけですが、そうなったらそうなったで、一種の母性が発揮されて、目の前にいるこの弱っちい彼氏・夫を、強者オスに「育成」していこうという努力が開始される。

男を躾けて、あるいはサポートして、立派なオスに仕上げていこうとするわけですね。自分が自然状態では弱者オスしか捕まえられなかったことをリベンジするかのように、自分のパートナーに投資し始めると。

女性は、現実のパートナーを、より強化していくという方向性に努力できるが、選ばれた弱者オスからしたら、「選ばれたあと、淘汰される」ような感覚があるかもですね。

せっかく選ばれた、ちゃんとメスを手に入れられたと素直に喜べなくなる。尻に敷かれ、ひたすら躾けられ、「育成失敗」に終わった暁には、最悪、無視され存在感ゼロのATM化すると。

とりわけ現代のサービス業社会では、男性という性自体が情けなくなりがちで(力仕事で威張れない)、家庭では「説教」もできない。自分が外ではもっぱら人に仕える仕事しかしていないので(serviceという言葉自体「人に仕える」という意味ですし)、子どもを躾ける根拠と体力が内側からどうしても湧いてこない。そしてその役割はほぼ妻に独占される。

オスとして一応選ばれるが、自分の中の弱い部分は妻によって徹底的に矯正されるので、たとえば元の10分の1も残らなくなったりする。

そうすると、いわば「0.1夫一妻」みたいになるので、これをもって、妻としては一夫多妻のゲームを完遂させたことになるわけだ。一夫多妻が小数点レベルでスライドされて実質的に実現したと。

だが、0.1ならざる1としての夫側からすると、自分の中の9割方否定されるというのはたまったものではなく、妻に対する不平等感が生じる。

一夫一妻では、男にメリットがあるようにも思えるんですが、「選ばれた後の排除選別」が力強く働くので、実は疎外感が強くなっているのではないか(逆に、女性は一夫一妻で圧倒的に困るということにはなっていないように見える)。

だから、男は女の何倍も強くてはじめて、結婚という事業を平等対等に経営しうるスタートラインにかろうじて立てるという感じだと思う。

もちろん、対等でなければならないということもなく、男はオスとしてそもそも選ばれないということに進化的に慣れているので、尻に敷かれ権威なきATMに甘んじつつも、献身的に家庭を支える自分にアイデンティティを見出すこともできる。

また、寝取られ性癖みたいに、自分よりも強いオスにパートナーが屈服して、自分では与えられない満足が別のオスによって与えられている光景にザワザワした興奮を覚えるのなんかも面白いと思う。これも結局、オスには「値する」(deserve) という感覚がある証拠なんじゃないか。強者が現れたら、相対的に弱者な自分が女性を扱うより目の前の強者に譲った方が良い。その場合、自分は目の前の女性を不当に所有していることになり、強者が現れた以上は、もはや自分はその所有を継続するには値しない。こういう、よく言えば潔い感覚が、男の中にはうっすらあるような気がするんですよね。それに値する者がそれを所有すべきであり、値しないものはぐずぐず執着せずさっさと立ち去るべきだと。これも、弱者男性としてメスに選ばれない可能性を正当化する哀しき進化的適応でもあるのかもしれませんが・・・。

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