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千葉雅也の講演を聴く

月曜日、千葉雅也の講演を聴きに龍谷大学に行った。

何年か前、TOEICを受験しに来て以来の龍大だ。

白Tのラフな出立ちで登壇した千葉氏が、「宗教的なもの」というテーマで話を始める。

世俗主義・現世主義で育った千葉氏にとって、宗教はやはりずっと馴染みの薄い事柄であった。上位下達で善悪を裁定する超越的で一神教的な気分への距離感というものを、直感的ないし良識的に育ててきた。

そんな千葉氏がだから「宗教」ではなくぼやっと「宗教的なもの」というフレージングを採用するのも、氏のまさに仮固定的な手腕が発揮されているかのようだ。

宗教的なもの。千葉氏はそれを物質性という観点からアプローチする。宗教とは第一に儀礼である。それは言葉でしるされた教義やイデオロギーである以前に、まずもって儀礼として自分の目の前に立ち現れてくると。

儀礼という概念は、話を聞いていて、すごく納得がいくというか、拡張可能な概念だと思った。

儀礼という表現にアレルギーを起こしてはいけない。儀礼というと「宗教的」という形容をつけたくなるが、そうではなしに、日常(生活世界)に即して、身の回りのあらゆる「行い」のうちに、何か宗教的な契機が透かし読めるんじゃないか、という発見的態度でもってその意味を拡張してみる。というか拡張してみたくなった。儀礼と聞いて、なぜかその場で私の脳裏に浮かんだのは、マスク着用、列に並ぶこと、iPhone、無印良品だった。

改めて言語化するなら、たぶん、私は儀礼という概念を、「それをやっとけばとりあえず間違いのない身体運用および身体的惰性」として抽象的に想定したのだと思う。

まあ、たとえば「わたしが無印良品を選ぶ理由。」みたいな感じでいくらでも言葉(ロゴス)で根拠づけや正当化はできるし、現にいろんなところでそうしたことがなされているわけだが、ここに挙げた、マスク着用、列に並ぶこと、iPhone、無印良品という一連を選択する上で一番デカいのは、結局のところ、「みんながしているから」とか「それを選べばとりあえず間違いがないから」あたりだと思う。

ミラーニューロン的に、「とりあえずみんながやってるようにこんな感じにしておけばいいのかな」という大小無数の判断によってそのつど形成されるこれらの行いは、実質的に「あなたがそこにいていい理由」を与えている。間違いがない行為だからこそ、うっすら正しさの感覚を付与してくれる。儀礼がその物質性・身体性によって根拠の無限後退に歯止めをかけるのと同様に、(コロナ禍での)マスクやiPhoneは無数の選択肢の中で有無を言わせぬ正解、オーソリティーを体現する。

儀礼を通じて働く身体的惰性は、とはいえむろん、どんなものであってもかまわない、というわけではないだろう。サラリーマンの延々と続く会議は、その中でどれほど意見が相違していようと、同じ時間を過ごしてともに疲労したという事実、このプロセス自体が合意形成へと向かわせる。時空を共有し、一緒に苦しんだという事実は、それ自体が一種の儀礼として機能する。「(そろそろ疲れたので)この辺で・・」という身体的惰性。しかし、まあできれば避けたいたぐいの儀礼であり、実際に不評だと思う。儀礼が普遍的な妥当性をもつには、それが無数の選択肢や根拠の無限後退に終止符を打ってくれるというだけでなく、できれば一定の美しさをそなえていることが望ましい。

儀礼は美しくなければならない。ダサくてはいけない。
無駄のない美しい動線で、生命力を賦活するvividなある種のでなくてはならない。型。そういえば名越康文も、日本において普遍性を担保しているのは哲学や宗教ではなくある種の身体的な型だとどこかで言っていたような気がする。


美しさには賞味期限がある。
イエス・キリストはユダヤ教の律法に生命力の喪失を見出して新約を始めたし、プロテスタントはカトリックの腐敗した教会制度に抗って聖書主義を唱えた。とはいえそれらの宗教改革は十分に改革的だったのだろうか? 歴史的に長い目で見れば、結局ロゴスの支配がより強化されただけではなかろうか? そこからすると、無宗教といわれる日本人の方がよほど宗教的である(宗教的にラディカルすぎて無宗教になってしまった、かのようだ)。日本人は儀礼とロゴスを結びつけなかった。生活の全体がロゴスなき純粋な儀礼と化した。日本ほどマクドやスタバの店員がキビキビ働く国はない。

美とはだから祈りである。儀礼が美しく、生命力を賦活するものであってほしいという懇請は、儀礼を実践することがそのまま祈ることであるような再帰性・反復性を示す。祈りは儀礼を増幅する。それ自体がまた物質的な重みを増す。

こういう宗教のかたちもある、というか、これこそ最も普遍的で最も古層にある宗教のあり方だ、と思いたい。

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