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おのれの本音を殺してはいないか

こんにちは!MAIです^^

現実を見てるのは、いつだって我が眼(まなこ)であります。他人は私の現実を見れないし、生きることもできない。逆もしかり。

「現実を見た方がいい」という言葉があります。これに心もってかれて感情がゆすぶられた時があったんです。でも感情がゆるぶられた時は、そこに注目。

まなこをかっぴろげて見てやんよ。

ゆすぶられたのは自分の中の何かが反応したから。それを見逃さない。

その何かとは、本音だ。普段は気づかないフリをしているかもしれない、複雑な感情で包まれている本音が隠れている。

本音は、否定されると苦しいのだ。本音をつつかれると痛いのだ。本音が悲鳴をあげている。

それでも、ゆすぶられるとちゃんとでてくる。それを気づくかどうかは自分の選択だ。

本当に向かいたい先が、ゆすぶりの向こう側に見つかる。変化はゆすぶりのその先にある。

こころが破壊された時も、泣き叫んだ時も、怖くて仕方がない時も、失ってしまうかもしれず体が硬直する時も、近くにはゆすぶってくれた人がいた。感情変化を起こしてくれた人がいた。

だからゆすぶってくれた人、感情を殴ってくれた人は、表面上だけで捉えると、イヤなやつとか、キツいヤツとか、近寄りたくないヤツなんて解釈になっちゃうけど、それで見つかった自分の本音の価値に気づくと、

すげー価値提供してくれた人ではないか!とふるえる。お金で簡単に換算できない感情をあぶりだしてくれたのだ。

そうして、自分の本音に確信をもてたら、決めることができる。

これで生きるんや、と。いったるで、と。死ぬまで魂燃やしたるで、と。

そうすると、他人が言う”現実”に惑わされん!と強い意志をもって心に決められる。

そうするとそうすると、では自分がどんな"現実"を生きるのか、を決めねばならん、となる。

そぉぉぉぉぉぉすると、"現実"をどうやって捉えるか、定義するのかを考える。

これを決めていくことが、自分のド真ん中で生きていく、ってことのはじまりであると。

この自分が生きる”現実”を決めるときに、過去からの自分で”現実”を決めるか、未来から逆算した自分で”現実”を決めるか、で設定が変わりそうです、というか変わるんです。

過去からの自分で現実を見たとき、それは過去の延長線上の自分だから、もってるリソースも、能力も、何もかもが制限しかないように見える。これでは戦えないじゃん。ダメじゃん。やめとこってなる。それが現実になる。

過去の延長線を生き続ける、変わらないレールで生きていくことを受け入れる。

でも、未来の自分から逆算して現実を見たとき、何でもあるじゃんの未来から現実をみたとき、それに向かって積みはじめたのが今の自分なんやなと思える。それを現実にする。どんな人でも下積み時代がある。

44歳で逮捕されて、27年の投獄生活のあと「私は生き残ったのではない、準備をしていたのだ」って語った71歳のネルソン・マンデラの言葉を知ったとき、これが自分で人生の定義をすることなんやなって震えた。

自分が定義した物語を現実に化かす力。

それに必要なことが、その物語を編むための言葉(物語)集めと、人に逢って震える感情交換と、その環境に身をおきつづけることなんだろうと思う。

だから人に逢いに行く。人混みにつっこんでるんやない、未来に向かってつっこんでってるんやで。

現実なんて十人十色の七変化。千変万化の未来を設計&工事中!


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