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自分の気持ちがわからなくなったら書くもん

こんにちは!MAIです^^

自分の気持ちがわからなくなることがある。どうしたいんだっけ、どうしたらよいだろか、考えてもでてこん。

あー悩んでる時間がもったいなーい、もうほっとこうかな、その方が楽だしって思いたくなる。

でもわからないとか、どうしたらいいのか悩むっていうことは、そこに何かがあるのだ。どうでもいいことには悩まない。いさぎよく捨てられるはず。

そうじゃなくってひっかかるものがある。それを何とかしておかないと前に進めない気がしてくる。悩む理由、そしてその奥に悩むに至る感情があるはず。

それが言語化できない時、

もーんもーんもーん。

もんもんするから散歩するもん。

それでももーんもーんもーん。

のリピートである。

久しぶりに強めのもんもんが来た。強もんもん。つよもんもん。

その他、よわもんもん、ちゅうもんもんもきっといるはず。なんだかポケモンみたいだね。

頭の中で考えすぎてるからもんもんする。これが気色悪くてたまらない。

そういう時こそ書く。わからないから書く。むしろ書く。わからないことを書けるのかって思うけど、どんなことでも良いから書き始めてみる。

わからない、ということを書くのではなく、"どう感じているのか"を書いてみると、わかっているつもりだったのに、わかってなかった自分の感情がでてくる。

頭の中にあったものを感じている時と、テキストになったものを見ている時、同じ言葉のはずなのに感じ方が違うことに気づく。

こんな風に思ってたんだ!が見える。頭の外にでた瞬間に客観的に見れる気持ちになれる。あくまで気持ち。

自分の頭の中にあるものってわかっている気でいるけど、わかっているつもりで、実際に吐き出すまでは、わかっていなかったということがわかる。

自分の内面ってわかっているようで、わかっていない。今日一日、何を感じていたか、ですら書いてみないとわからない。

そうやって、わからない気持ちを書くことを2~3日続けてみて、3日分くらいの自分を振り返ると、強気になったり、弱気になったり、朝令暮改をしていたり、もがいているんだな、悩んでいるんだな、ということを第三者的に見れるような気さえしてくる。

そうやって自分をいなしながらも、悩むのがいい加減イヤになってきて、いっそのこと”損得勘定”で決めたくなっちゃう。早く逃れたい一心で。

損得勘定で決めると楽だ。なぜなら天秤にかけて判定だけすればいい。覚悟がいらない。

でもその瞬間、微細な違和感を感じる。損得勘定で決めちゃって本当にいいのかと、悩みの奥底にひっかかっていた感情がそれを発しているような気がする。

損得勘定で選び取ってきたものって最後はうまくいかなかったでしょう?

って早く逃げたい自分を自分がつかまえてくる。

ひっかかっていた感情は、自分の一番やわらかくて弱い気持ちだった。一言で言えない今までほっておいた感情だった。惨め・悲しい・不安・寂しい・こわい、これを感じるくらいならわからない方がマシだから、閉まっておいたヤツだった。

悩まずに向き合った瞬間にそれをまた感じないといけない気がする。だからそれを選ぶとこわい。そんな弱い部分を直視しなくてすむのが”悩むこと”だった。悩めば逃げられた。損得勘定に逃げたらもっと楽。

この悩みは今なんとかしておかないとこの先同じ問題がまたやってきそうなニオイがする。二度同じことで悩むのはイヤだ。

今まで自分をつくり変えてこられた選択は自分にとって怖い方を選ぶことだった。エモーショナルディシジョンである。ヨコモジにしてみたけど、気持ちで決めたよってことだよ。

怖いものの先にほしかったものって待っててくれる。

結果がどうあれ、これで前に進める。今週末は打ちひしがれているかもしれないし、小躍りしているかもしれない。

とてもとても抽象的な文章になってしまった。そんな感じで、ここんとこエッセイストみたいな文体になってきている気がする。

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