イメージ:”ガタガタ”

私たちがイメージするものは案外画一的だ。

非対称よりは対称の方が応用が利きやすい。

非平衡をそのままにしておくよりは平衡にしたい。

ガタガタした断面よりはつるりとした方が痛そうでない。

共通するのは、対称とか平衡とか滑らかな断面の方が、次々と積み重ねやすいということ。

歪んだままだと重ねられるものが限定される。

ガッタンガッタンしたイメージで世の中を見るとどうなるか?

整理しづらい

でも私たちのインテリジェンスってかなり驚異的に整理する能力が高いと感じる。

削れるとこ削る、だけじゃなくて、とりあえず見なかったことにして済ませたりもできる。

見なかったことにするということは、ガッタンガッタンは基本そのまんまということ。(誰かが修正でもしない限り)

実際の社会では誰かが整理してくれるし、そのために「なんでおのれらはやらへんねん!」みたいなコンフリクトのタネも絶えず生まれるのだけれど、その社会的規範としてはイマイチな「とりあえず放置(そのうちなんとかなってる、他力本願?)」戦略に潜む知恵ってわりかし大事なのではないか?などと考えている。

つまり、「放置」戦略では積極的介入による未知の利得なんて全く期待できないけれど、少なくとも不安やイライラでどうしようもなくなってはいない、ということ。逆に言えば、そういった不安とかイライラとかムラムラとか何かがなければ人は動き出しにくいということでもある。

ガッタンガッタンは現実。滑らか過ぎるのは要注意。

ベター(滑らか)を念頭にガタガタを修正しようとするけれど、この”念頭に”が要注意。

自由に向かって翔けているようにみえて、現実のガッタガタの細部に十分注意が向けられていない可能性が有る。あぶない。躓く。

いくら理想がご立派でも、それは一瞬では達成されない。現実を通過していく必要がある。そう。道のりはつねにガッタンコガッタンコと進むはず。

自由イメージ

「究極の自由とは死ぬことの自由だ」とかかっこいい感じのこと言う人もいるらしいが、別に「死ぬ」でなくても何でもいいんだと思う。本当に究極の自由なんてものがあるとしたらそれは、始点も終点もないものをイメージできない(だから「死」とか「死ぬ」とか言う)と認めることができるようになる、とか、完全に何も無い、自分も無い、状態を実は想像もできない分際なのに、「いや。想像ぐらいはできるよ。」と言わせてもらっている、という意味での限界受け入れられる、とかいうことだと私は思う。言葉や記号使っている時点で「真正究極の自由」なんざありはしない。さらに動物返りできたとしたってそれでも制約はかかるわけだし。。。人間ならではの自由にこだわりたいなら、限界なんて実は分かんないんだけど分かるって言わせてもらっていると認めて魂を自由にすることを目指されたい。

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