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だらしないおとな

子どもたちにはだらしないおとなたちに怒ったり、呆れたりしないで、平静でいるという類のやさしさを身に付けてもらいたい。

だらしないおとな(私)が言うのはおこがましい気もするが。

おとなからすれば、年少者からある種憐みを受けて、申し訳ない気持ちに苛まれるように。

それぐらいのペナルティは受けて当然だろう。

おとなというものは本当に延々とだらしない。

自分たちがだらしないだけで済ませればいいものを、わざわざ子どもたちを虐げるってのはどういうわけだろう?

要らぬお節介。勘違い。

育てよう。教えたい。というのはほとんど本能的かつ善意なものだろうと思うのだけど。

なぜに延々こうなのか?

延々というのは本当にずっと。

でなければ今の今までこのようにおとながだらしないままであるわけがない。

要するに、負の連鎖。

子どもというのは相当年齢の浅い時期から色々と感じ考えるもの。

おとなといったってパーフェクトヒューマンではない。

これらの言葉ももはや空々しい。

「虐げる」ということは、現代に至っては随分マイルドにはなってきているのでは?と感じる人も多いことだろう。けれど、変わったのはムチでしばくとかいうことがなくなったというだけ。そういう表立ったフィジカルな暴力が陰に隠れるようになったことで却ってどす黒い怨念めいたものが子どもの側に蓄積され易くなっているような気がする。

いやぁ。今の子どもたちは青少年も含めもっとドライだよ。怨念だなんて。。。

そうかもしれない。

でも、やっぱり、成熟した結果のドライとは違う気がする。

理想は「平静」なのよね。。。厳しいけれど。。。蔑んだり、呆れた上での無視や無関心じゃあ同じことの繰り返し。結局その状態で自分たちもおとなになっていくわけだから。。。

『地球幼年期の終わり』とか『献灯使』とかのような変異が子どもたちに起こるのを期待したくなるところだけれど(私、トランス・ヒューマニストだし)、何か今すぐにとっかかれることがないだろうか?

まあしかし。一人一人持ってるもんも様々だしなぁ。。。

いろいろ工夫するならそりゃやっぱり曲がりなりにもパワーを持っているおとなの方なんだけどなぁ。こちらには大して期待もできないというツラさ。

この決定的に違うパワーの差。こどもとだらしないおとなの間の。こいつを何とか克服する手立てはないものか?

無理やなぁ。。。

そんなん何とかなるもんならとっくに変わっとるわな。。。

ふと思いついたんだけど、おとなになるにつれてパワーが増すってホント?ホントとすると一体どういう過程を踏んで?何かパワーが増していくための条件なんかはある?みたいな問いに答えていってみるというのはどうだろうか?

例えば、子どもの頃に受けた仕打ちから怨念が溜まってそれがパワー増大に貢献しているとか。。。だったらイヤよね。。。という感じの気づきが得られると、パワーインバランスの程度を弱めるのに少しは貢献しないだろうか?

まあまともに科学的に分析しようとすると、歳を取るにつれて増していく体力、語彙とかその他知識、経済力、人的ネットワーク、文化(例:年功序列)やそれに基づいて制定されている法制度、それらに慣れているかどうか?とかってのがパワーの源として挙げられたりもするんだろうが。

そういうありきたりなものに加えて、もうちょっと個々人のエピソードっぽい話はどうだろうか?

昨今のおとなってだらしないわりに狡猾だから、子どもが中学生ぐらいになれば体力的には圧倒できなくなる、子どもによっては知識の面でも下手すりゃ追いつかれる、というような見通しは立てられる。では何で威厳を示せるか?カネ?「社会(の仕組みや荒波について)」を知っているかどうか?そういう予防的創意工夫は様々仕込んでいそうだ。そういう仕込みのイヤラシさがために育てられる側の心が汚され傷つけられてしまうとかいう話。

そうした力関係上の優劣を基準にした統制の心配より、本当に狡猾なおとななら、むしろ子どもたちがほんの物心ついた頃から、「この子に幸せな未来を!!」とかいうモットーを大々的に掲げてせっせと教育に励むんだろうな。但し、だらしないことに変わりはないわけだから、「自分なりに考える幸せ」なんて伝授できるわけもなく、巷で評判のいい学校やそこへ進む確率が高いと言われる塾や教材を工面するというのがせいぜいだろう。そうした外注頼りの愛情欠損が子どもたちの成育を歪めてしまうという話。

人間の認知能力なんて限度があるとはいえ、お荷物ばっかり若い方へ若い方へと先送りしておきながら、その送り先の人たち(子どもたち)に対していっぱしの社会人ヅラをするというのはあまりにも錯誤が過ぎる。

今に始まった話ではないということで、今のおとなたちだってその親やその前の世代から「不誠実」「いい加減」の雨あられを浴びてきたのだろう。しかし、選択肢ってホントにそれ一択なんか???というと今の体たらくを正当化なんてできないはずなんだな。

か弱きもの(赤ん坊や幼児)を庇護し、世話を焼けば、オートマチックにおとなになれるわけでもない。赤ん坊は抱っこされたりしている時、その人の目を凝視しているともいわれる。そして、そこに映る自分の姿も見ているとのこと。おとなの方も、逆に映し出される自分自身の姿を見て、様々振り返ってみて欲しいところだ。

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