世界のはなし

以前読書でちょっと前に読んでいたものの内容に、全くジャンルも何も同じでない別の本の中で偶然遭遇した話について記したことがある。似たようなことがこのnoteでも起ってびっくりした。

引用記事のはなしと厳密に同じことを考えていたというわけではないのだけれど、その他のおススメ記事の一つにこのタイトルが現れたのを見た時はハッとせずにはおれなかった。

私が上の記事を読むちょっと前に考えていた世界というのは今流行(はやり)の言葉で言うなら”マルチ・ヴァース(multi-verse、複数の宇宙)”といった感じの世界。一人一人の世界ってのはそれぞれ違っている。だから世界は人の数だけ存在する。そんな感じ。特に突拍子もない考えではない。似たようなことは結構沢山の人が考えている。

私は別にそういうことが本当にあり得るかどうかということを考えたかったわけではない。世界が閉じちゃっていると感じられる人とどうコミュニケーションをとることができるか?そもそも世界が閉じちゃっているってどういうことか?どのようなことが原因で、どのような経緯を踏んで世界というものは閉じられてしまいがちになるのか?そういうことをツラツラ考えていた。

どうも考えがまとまらないので引用記事で言われていた世界と似たような感じで世界というものはそもそも閉じられているものだと私は思うことにした。なぜか?というと開いた世界があり得ることになると考えることが面倒になりそうだったから。やれ俺のは開いてるだの、今は閉じてるけど開こうと思えば開けるだの、、、言い出すとキリがない。となると益々”マルチ・ヴァース”だということだけど、一人一人それぞれの世界があったとして、各々閉じたものなら案外面倒くさくもないのかな?と感じる。

諦め?開き直り??

そもそもお互いの世界はお互いのもので開いたり閉じたりするもんじゃない。そう前提した方が逆に人間関係もシンプルになるんじゃないだろうか?

世界が別々だと言ったところで、現実の証拠として、私たちはなんだかんだと関わり合って生きている。お互い閉じた世界を持っているからといって通信や共同作業が不可能ということにはなっていない。価値観の共有なんてことまで至極現実的なこととして信じられてもいる。

言っていることの意味が通じ合ったり、何か物を融通し合ったりしていると何となく私たちは世界が共有されているようなイメージを抱きがちだけど、”世界”が”共有される”ということはあり得ない。繰り返しになるけど、世界は閉じていてそれぞれ独立している。

沢山沢山そんな閉じた世界が存在する。

そのことが認知されるのはそれぞれの世界(今風に言えば個人)において。

ならば認知される世界が多ければ多いほどそれらを認知している世界の可能性は広がる。色んな通信の仕方や共同作業の可能性がそれらに対する戦略も含め考えられ準備もできるのだから。まさに紹介記事中で言われていた”世界の内実を豊かに把握する行為”とシンクロしているようではないか!?

へんてこりんに凝り固まって他者の意見に耳を傾けられない人や「”マルチ・ヴァース”ぐらい余裕で把握してるぜ!」などと嘯いてすぐに自己完結してしまうような人の世界というのは固く殻が閉ざされているんじゃあない。多分その世界の中にも沢山沢山あるはずの世界の内ごく僅かしか認識されていないか、同じようなものばかり取り揃えて安心しているのか、はたまた本当は全然違うものを「全部結局似たようなもん」みたいに一色で塗ったくってしまっているのか、そういう豊かでない状態にあるのだろう。

”マルチ・ヴァース”的な世界というのは引用記事に書かれていたこととは異なるというかある意味反しているのかもしれない。だって個々の世界の豊かさが自分以外の他者の世界の数に依拠しているかのようだし。沢山あればそれでいいのか(豊かといえるのか)?いくら沢山あってもそれを一色に塗ったくってしまっては豊かとはいえないのだから大事なのは世界の数ではないだろう。違うそうじゃない。個々の世界の豊かさを知らねばならない。

なんてことでもない。

私が思うに、あんまり個人の意思の力とか観察力、分析力、判断力等々のパワーを過大に見積もらない方がいいのだ。つまり、人それぞれの世界がわんさか存在していて個々人はそのことを認識するという見方というのは、一個一個の世界というものはどんなに豊かであろうともあまり大したもんじゃあないと見る。相当な数が集まらないとろくに役になんか立たないもの。そうではあってもここが大事な最後のパーツ(プレーヤー?)ともいえる私たち個人。こいつがそいつらをどう繋げ編み込んでいくか?ここんところで個人の大活躍が期待されているんだろうと。かの松岡正剛さん風に言えば「編集し/される」ことで立ち現れる自己という感じだろうか。

シンプルに、あまり個人個人の意思やら知性やらいうものは過大評価しちゃあいかんね。どんなにブリリアントなお仕事を残したりしても。逆にてんでダメな自分のことを分析するにしても。全て沢山沢山ある多種多様な世界のお陰をもってこうして生きておりますという感じの見方。難しいかな???難しいだろね。。。ここまで数百年かけてがっちょり固まってきてしまった個人像だからね。。。

もっとゆるくリラックスした感じの個人像。その方が随分と楽になるんではないかなぁ。。。現在広く行き渡っているイメージよりその方がより現実をよく表していると思うのだけども。。。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?