余計なこと
人って余計なこと考える。
二児の母。上は3歳の男の子。下は生まれたばかりの女の子。母乳腺炎でおっぱい激イタでちょっと臥せって休んでいるところ、上の子がベッドでトランポリン♪「おいーー。ちょっと静かに休ませてくれー!」で。ダメもとで言ってみる。「○○ちゃん。トランポリン止めてちょうだい。」子供。なぜかニヤリ( ̄▽ ̄)。でより激しくトランポリン。ぐぉーーー。おっぱいいてー。いらつくなーこいつー。
なんて感じるのはどうしようもない。
余計なことというのは、「この子ってとっても悪い子なんではないか???」なんて思ったりしちゃうこと。
そもそも自分だって”ダメもと”と弁えていた通り、お願いしたところで聞き分けてくれるような年頃でもない。下の子に注意が向きがちになったりする母とコミュニケーション取れる方が嬉しかったりするかもしれない。
事情は様々なれど、めちゃしんどいときに言うこと聞いてくれたらなーって願うのは自然だし、解っちゃいるけど聞いてくれないと、いらー、むかーってなるのも分かる。
でも他の人(この場合は上の子)がいい人間なのか悪い人間なのか?なんてことまでどうして進んで行ってしまうのだろうか?
痛いんでしょ?しんどいんでしょ?
それだけじゃない???
ああそうか。我慢できずに自分の子にイラッとしたりムカッとしたりする自分自身が許せない。ということ???
うーむ。なんてエライんだ。。。
自分自身が許せない。。。
すげー。
許せないっつったって、どーしよーもないんじゃないか?でも。。。
イラッとかムカッとかってほぼ反射的な反応だし、そんなの完全制御は難しいよ。うまく制御できるとしても、内心イラッとかムカッとか、自分の子、しかも年端もいかない子どもに感じてしまう事実は消せない。
そもそもそういう感覚を無きモノとするのって、後々「あれ?ちょっとだけこの子分かってきてたりする??」って感じた時に、試みに聞き分けさせてみる、というような注意力を鈍らせてしまう可能性もある。
何が言いたいのかというと、ほぼ反射的に感じてしまうようなことは、それはそれとして認めておく方がいいということ。だから色々あったってそのうち忘れてしまうさってのとはちょっと違う。
細かいことを仔細に憶えているというと記憶力の問題にされそうだけれど、そういうことでもない。他のみんながしょーもないって言ったって大事なもんは大事なもんとして大切にとっておく。そんな気持ち。
自分の中で巻き起こる様々な気持ち。ほとんど言葉になんてできないような、あっという間に忘れ去られてしまうようなもの。そういうほとんど社会という局面には意味がなさそうなことだって、そこで暮らしているいろんな人、そこにあるいろんなものが”感じさせてくれている”。そんなふうに感じられれば、折角いろんな人、モノがもたらしてくれたんだ、ってことでより大切に慈しむことができるのではないだろうか?
難しいか。。。やっぱり。。。
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