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Operating System (OS)

基本設計図?ジーン(遺伝子)?ミーム?

日夜ベーシックインカムの実現可能性について思い悩んでいます。思い悩んでないでさっさと行動を起こせ!という声も聴きつつ。。。

ベーシックインカムについては今年早々フィンランドで実験が開始されたということで、日本でもニュースになっていると思います。

私のいるポルトガルには、有志によって組織されたネットワークがあり、日々議論を重ねているようです。また、発足当初はヨーロッパを対象にしていたけれど、現在では全世界を対象として、パイロット的に実施されているベーシックインカムやそれに類する事業をフォローして検証しながら、ベーシックインカムについて情報交換している大きなネットワーク(日本からの参加者もあるようです)もあります。現行体制を大きく変える必要がある、と前提されているので、そこまで実際は過激でもないのですが、社会活動家・団体っぽくとらえられやすいかもしれません。

しかし、真剣に実現性を考えるならば、あまり現行体制を大きくは変えない方がいいのかもしれない。さらに、一国の社会保障制度を根本から見直すとなると時間もかかる。結局時間がかかるものなら、こちらも時間はかかるけれども、人々の意識を変えるという、制度ではなく、個人へのアプローチも考えてみたっていいんじゃないか?

人々の意識を変えるなんていうと漠然としていて、しかも倫理的にも色々と問題がありそう。私がイメージしているのも、一人一人に基本設計図というかOSをインストールして、現存のシステムや技術、知識を勝手に使って普通に生活してもらう、という感じなのだけど、なんかSFチックでもあり、マッドサイエンティストっぽくもある。

大げさなように聞こえて実はそうでもない。私たちが日々何気なく実践していることをちょっとだけ見えやすくするだけだから。

基本設計図なんていっても直接頭の中なんかをいじれるわけではない。いくつか「当たり前」としてやり過ごしていることをピックアップして、それについて考えてみるチャンスを増やす、というだけのこと。

「当たり前」としてやり過ごしていることで、私が選ぼうとしているのが、交換

交換はしないでは生きていけない。

貨幣経済がどれぐらい整っているか?にもよるけれど、アフリカの、舗装された道路が通っているところまで徒歩小一時間、いや、それよりももっともっと遠い村々にだってコカ・コーラがあったりする。今となっては紙幣を見て全く意味が分からないという人の方が少ないのではないか?多くの人々が生きていくために、物々交換だけではなくて貨幣を介して多種多様なモノやサービス(労働を含む)を交換しているというのが一つ。

そのあたりは経済学の得意とするところだけれど、もう一つ、もっと普段何気なく交換しているものがある。意味。価値。或は、理解。より厳密に言うと、これらについての各個人が思い描く仮定。いわゆるコミュニケーションというやつ。コミュニケーションってお互いに仮定を提示し合って、それについて大概において妥協的に合意を形成している。別にAさんがボールを投げてそれをBさんが受け取ったというような、何か決まったカタチのあるものを異なる二者以上の人々の間で受渡しし合っているわけではない。否定的な言い方をするなら、お互いの”思い込み同士の衝突”だ。

双方の交換に共通しているのが信頼関係。

貨幣を介した交換における信用というと、まずは交換の当事者同士がお互いに「おカネをおカネと信じる」ということがあるけれど、これってほとんど見過ごされている。

ここに注目してみると、意味や価値や理解の交換に不可欠な信頼関係と、貨幣を介したモノやサービスの交換に含まれる信頼関係とは、それほど遠くないことが分かる。

要するに、各自が、おカネや意味や価値や理解を他者と交換可能なものだと信用することにしようとするプロセスは、物語り(交換可能性への期待に駆動された仮定作り)だ、ということ。

また、両方の交換に共通なものとして、権力関係における不均衡があり、この不均衡がために、信用することに決めるための物語りが、必ずしも全て、各人が能動的に語ったものとは限らない、という事態が生じる。交換というのは、交換することでいいことがありそう、と気付いた人が交換相手に働きかけることで始まるのであって、万人に平等なスタートラインが用意されているわけではない。現代の契約社会ってあたかもそういうスタートラインがあるかのように偽っているけれど。。。

能動的に語っているわけではない物語りの中でも象徴的なのが「おカネをおカネと信用する物語り」で、おそらく銀行家や一国の財務大臣だって、そんな物語りを自覚的に語ってはいないだろう。

敢えて語らない(大っぴらにしない)方が好都合(←”Money as Debt”の1)というのもあるのかもしれないけれど、おカネがおカネとして機能し続けるために不可欠な信用を作り出しているところの人々が敢えて自分たちのパワーを見ないようにする或は隠す、というのは倫理的にも問題だし、結局本質的な問題を引き起こしていて、それにどうやら気付いていない、という状況を生み出してしまっている。

やはり本質を隠すのは得策ではない。

何しろ、現に不特定多数の人々がそれぞれ日常的に「おカネをおカネと信じて」、それでもってそれぞれの生活を成り立たせているわけで、皆各自の物語りについてもっとフランクになったとしても、「国とか銀行とかにそんな圧倒的な権力なんて渡すもんか!」とかいって突然現行のおカネを使うのを止めたりはしないだろうし、独自の通貨を作って使い始める、なんてすぐにはできないわけだし。。。(試みは各所に既に見られるけど。)

国や銀行を含む資本家には、引き続きパワーを持っておいてもらった方がいいともいえる。特に生活に必要なモノを製造する企業には、より効率的に製造を継続していってもらいたい。そのためのリソースを資金の形で調達し続けられるためにも、おカネは現行のシステムで流通しているものと大きく違わない方がいいのではないか?

今はおカネが国や中央銀行や金融市場によって”信用”おける(とりあえず持っておいたら生きていくのに困らない)モノ、とされていて、結果、「おカネがなきゃ生きていけないわけでしょ?」というふうに、「おカネがおカネたる所以」を、暗黙の裡に自分たち以外の何者かの責任にしている。おカネをあたかもモノの如く扱っているのはそれぞれの利用者であるにも関わらず。

大事なことは、大多数の「おカネはただ使っているだけ」の人々の物語りが、あまり直接関係しているとは思えない国とか金融の仕組みとかともつながっているんだ、と理解されるようなものになればいいのでは?

そしてそこには暗黙の裡になされている”信用”があり、日々の安全への”期待”がそうした暗黙の信用のもとになっているということが自覚されればいいのでは?

個人のプロセスへのアプローチ(Weak analysis)

「想像力を広げよう」とはよくいわれるけれど、多分想像は広げるんじゃなくて奥へ奥へと奥行きを深めていくイメージの方がいいのでは?その「奥へ奥へ」って何だ?というのが、一人一人が様々感じていること。

私たちが日常的に様々感じていることって実は言葉にならないようなものの方が多い。でも言葉に長けてくるにつれ、本当に多くのモノゴトが言葉やそれに近いカタチで認識され(るような気分にな)るため、あまりごちゃごちゃぐちゃぐちゃした何かに気を取られるのを嫌うようになる。

言葉に限ってみると、「言葉にできる」というのは、単語単語ではダメで、少なくとも二つ以上の単語が関連付けられていないと、「分かる」ことが非常に限定される。つまり想像が広がらない。ということでボキャブラリーというのはめちゃくちゃ大事ではある。けれども、ボキャブラリーを増やしたり、「増やす」ということはそこに含まれる語の定義を学んだりして詳しくなったりするんだけれども、そういう言葉の世界にばかり集中していると、現実が疎かになってしまう。

「では現実を見よう!」と言って、増えたボキャブラリーとかそれを駆使しての様々な言い回しを試しまくって、自分たちが「現実」と信じるものを言葉などで表現し、それをしゃかりきになって検証して正しさを証明してみても、それは現実を見ていることにはならない。

現実とは、勿論私たち人間の意識があるなしに関わらず存在するものなのだけれども、意識みたいな感じのものを持たされてしまっている人間にとっては、各々の感じていることの中にしかない。人間が理解可能な言葉やその他記号で表される以前のもの。

で。「現実を見る」というなら、その人間が理解可能な言葉や記号になる前のものどもを見て、それを人間に理解可能な言葉や記号で表そうとする、ということなのでは?

とはいえ、依然として表現するための手段はリッチであるに越したことはない。つまり、絵だの写真だの動画だの、はたまた数式だのグラフだチャートだの、そして言葉で表される概念っぽいもの、詩的なものも含む情景描写の方法などなど、記号という記号は使い尽くせるならその方がいい。すでにある様々な手法は、科学的実証分析も含めて引き続き継続発展させられるべきもの。

そこで重要になってくるのがバランス。

手法の開発に従事するのはあくまでも一人一人がそれぞれの現実を書き表す方法を豊かにするため。したがって、開発される手法はあくまでも手段であって目的ではない。けれども、手法の開発というのは全く現実を無視しているわけではなくて、少なくとも現実世界から何らかのシグナルを受けて必要と思われるから続けられているもので、何も浮世離れしたお遊びだ、ということではない。むしろ、理想的なのは、手法の開発自体が、人々の現実世界の記述の試みにそのまま役立つこと。

どうすればいいか?ただの手法の世界の中での整合性確認などへの耽溺(手法の目的化)と、開発されつつある手法自体がモノホンの現実を記述するのに役立つこととの差異とは何か?

キーは記述に携わる人間が、それぞれ自分以外の人間(あくまでも仮想化されている)をどこまで、自分と同じように実物(リアル)であると理解することができるか?

しかし、これだけではただのお題目に終わってしまう。「人類皆兄弟」なんて言うだけなら誰でも言えるし。

テクニカルな何かが欲しい。ここを操作すればOKというような。

思い切ってみると、究極的には、私たちはどんなに優しくしようとしたって、他人はあくまでも仮想イメージでしかない、と割り切ること。

仮想イメージに過ぎないからこそいろんなことがしちゃえる。優しくすることもあれば、信じられないぐらい残酷なことをしてしまったり。。。そこはもう否定しない。

で。そんな仮想イメージでしかない他者ではあるけれども、自分の願いのようなものを投影することはできる。

例えば、弱い立場にある者の声を無視せず聞いてくれる(あげられる)ような人間でいて欲しい(いたい)、というような自他の同調。

そして、同調への願いがあるようなんだけれども、どうも一方通行のようで、それがために同調が双方向であったとしたなら現れているかもしれないけれども、現実には現れていない現象について想像してみる。

これを私たちが日々従事している交換に当てはめると、交換に含まれているはずの、

①「交換の相手方の何かと、自分自身の持つ何かとが、交換可能なものであるだろうと仮定するに至る物語り」を読み、

②その中で、自他の願いの投影が起こっているであろう点を見出し、

③さらに、投影が双方向的であるか?一方通行的であるか?を見極める。

ポイントは、深い意味の交換が表面上起こっていなくても(いやむしろ、起こっていないように見える方が)、現実のモノやおカネが移動する交換が成立している、ということ。

これは効率的な資源(再)分配の観点からは望ましい面もあるけれど、個別事案を細かく見ていくと、「抑圧されている」という感覚など、不満がくすぶり続けている可能性が高い。しかもかなり偏って。そうした社会に偏在する不満の全てを面倒見ることは不可能かもしれないけれど、放置はしない、という姿勢が、人類社会全体の安定を考える時、大切になるのではないか?

交換を巡って語られることとは?

日常的におカネを使う、というのは一見したところ物語りでもなんでもない。

ただ、おカネが引き連れる様々な情報もあり、単にコンビニでおにぎりを買う、という行為にも様々な意味が背後にあるであろうことが推定できる。

おにぎりであるなら、生きていくのに必要なエネルギーのいくばくかは調達できているはずだけど、本当のところは、余分なおやつなのか?3日食料にありつけていなくて、決死の覚悟で百何十円を払ったのか?は分からない。

ベーシックインカムが確保されていれば、少なくとも後者の可能性はほぼないと考えることができるだろう。つまり、おカネを支払うという単純な行為だけれども、その背後にあるストーリーについて、「なかなか想像しにくいんだけれども、特定の人にとってはものすごく切実な現実」というのがなくなるだけで、相当社会的にプラスの効果が期待できるということ。常に「できることなら分かって欲しい」というストーリーを抱え、それがほぼ誰にも読み取られることがない、という経験は、長引きやすく(下手すると半永久的に続く)、よって、人々の心に深いダメージを刻み込んでしまう可能性が高い。

ベーシックインカムが保証されれば、とりあえず使われる金額(消費)が増すのではないか?と思われがちだけど、増えるにしても、消費(或は別の用途)の内容、そこに至るまでの物語りを丁寧に観察してみる必要があると考える。

生活必需品についてはそれほど深い考えも伴わないかもしれないけれど、おカネを払う前に様々調査をするというのはほぼ間違いないところ。つまり購入可能先に関する知識(品質、信頼性など)や情報が行き交う。

ただ、モノやサービスに直接関係する情報のやり取りのみならず、人々が知識や情報を交換するのは、まずは連帯可能性向上のため。ここが安定して、信頼のおけるコミュニケーション相手がいないと、引き続いての物語りが中々安定して発展しない。

知識や情報というのは、実は物語りそのもの。

知識や情報は無償で不特定の人々の間を自由に行き来するのが理想的。つまり値段を付けるなどしてアクセス権を制限的に設けたりしてはいけない。

ところが現在は、交換可能な知識や情報というのが、おカネの価値に換算されやすいか?どうか?に左右されているように見受けられる(勿論そうでない知識・情報のやり取りも存在するが、目立ってやり取りされる知識や情報は、おカネの価値をなんとかして付けよう付けようと争っている)。つまり、「この人を仲間だと信用してみよう」というその根拠までもが、”評判”であったり”権威”であったりするわけだ。別にその人自身の特性などを見ているわけではない、ということ。

「そんなことはない。私はおカネを儲けるだけではなく、総合的に判断して、信頼できる知識や情報とそうでないものとを判別している。」と信じているような人々でも、実際のところ、生きていくために必要最低限、できればちょっと余裕をもったおカネ(収入)を得たい、という望みを完全に否定することはできない。つまり、「総合的に判断」もおカネの引力からは解放されてはいない、ということ。

信頼できる情報よりカネになる情報

そんな流れに自分は乗ってないなんて思ってても、世の中そういうわけにはいかない。ベーシックインカムが確保されていれば、この点が改善されるのではないか?

ともかくまずおカネを動かそうとするのではなく、とりあえず知識や情報の交換を促進し、そうしてお互いの事実認識などがハッキリした上で、必要なモノ・サービスを動かすためにおカネを使う、というのが理想では??


パイロットの対象選定

知識や情報を産み出してはそれらの交換可能性を高めようとすることができる層というのは、比較的知的能力というパワーを有している人々が集まっている。このパワーをより公正で民主的な社会実現のために活かすことが重要。

基礎教育から技能教育、高等教育を対象としてパイロットするのはどう??無形のサービス(知識や情報)がどのように交換されるか?現在は、とある学位や資格を取得することで、主に労働機会をはじめとする金銭収入のチャンスを得やすくなることを期待して、教育や技能訓練におカネを払っている。教育を受けようと思えば一定の対価を支払う。ベーシックインカムが確保されたら、その価格はどう動くか?教育への需要動向(学ぼうとする人の数、学びたいと思う科目や技能)に変化はないか?

教育サービス提供側としてはどうか?同じく金銭収入を得るために教職に就いている人々が、ベーシックインカムが確保された場合、「教える対価」を尚おカネで求めるだろうか?

(検証すべき項目の例)

パイロット開始後、参画した、おカネやモノ・サービスのやり取りを伴うネットワークの数、種類(製造生産系?商業交易系?研究開発調査系?教育技術訓練系?文化活動系?政治活動系?)、地理的広がり、期間、他のネットワーク構成員に対する理解(願いの投影やその同調が双方向的であるか?一方通行的であるか?)、ネットワークとしての損益、個人としての損益(金目の話には限らない可能性も)、

こういったパイロットなら、ベーシックインカムが保証された後の人々の行動変化を包括的に観察することもできるだろうけれど、ともかく無形サービス(知識や情報)のやり取りにフォーカスした変化(需要、価格など)、そして、利用者がそれぞれおカネに乗っける意味にも変化が現れるかどうか?などまで確かめることができるのではないだろうか。

まあでも。。。

私のアイデアをまとめれば、、、人々のおカネに対する意識が変われば、ベーシックインカムもそのためのパイロットも別に必要ないんだけどね。。。

なかなか難しいもんね。。。何か強烈なインパクトでもないと。

ただやはり、できれば穏便にいきたい。なるべく多くの人が、何か新規に大事を始めるのではなく、今までの流れをちょっとだけ振り返る機会を増やす感じで。ことばの使い方ってキーだと思うんだけど。。。やっぱり振り返りって言うほど簡単じゃないよね。。。(悩)

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