見出し画像

ゆっくり時間をとる(前編)

ひょんなことからこんなストーリー(California Burning by Amy McDaniel)を読んだ。

えれー長いのであらすじをば。(このノートもたいがいなんですが。。。だからやっぱり二つに分けます。)

著者は米国アトランタ出身の白人女性で、2000年頃カリフォルニア州のカレッジに通っていた。米国西海岸のカレッジは基本白人がマジョリティで、この層は黒人って身近に触れたこともないって人が多いらしく、著者は新入生の時、同級生たちから幾度となく黒人について質問されたそう。アトランタは南部で、黒人も多く、著者のハイスクールだって生徒会長が黒人とかフツー。つまり相当のギャップがあったと。それぐらい他人種との接点が希薄な学生が多かったとはいえ(だからこそ?)、課外活動で、多人種融和のための相互理解促進ワークショップなども開かれていて、著者も参加していたらしい。
そんな中、2001年9月11日。いわゆる9/11が起こった。以降同カレッジでも、人種差別関連で不穏な空気が流れるようになり、キャンパス内で十字架が燃やされるという事件が発生。十字架を燃やすというのは悪名高きKKK(白人至上主義の差別組織)に象徴されるようにレイシストの示威行為としてかなり大きな問題。だけど、西海岸という土地柄のせいもあり、燃やした学生たちが「KKKとかは知らなかった。ただの悪ふざけ。」と尋問に答えてそのまま不問に付された。するとそれほど間をおかず、とある白人女性教授の車が駐車場でぶち壊され、レイシストによると思われる落書きが車や周辺に書きつけられるという事件が起こる。なんでも、この教授が反レイシズムのための意識向上、さらにはより具体的な行動を、授業の中で結構強く推したとかで、その反発から、という状況だったらしい。「これは一大事」との学校側判断により、計5つあるキャンパス全部が一日完全授業中止。学生たちは反レイシズムのデモを組み、学内中心広場でスピーチも行われた。被害者教授もスピーカーとして登壇。
がしかし。後日車ぶち壊しや落書きの件は、この女教授の自作自演であったことが判明。。。

物語の中で起きた事件等はこんな感じ。

ストーリーの中心はしかし、人々の行動原理とメディアなどが創り出す社会情勢との超複雑な関係について。

整理すると、「白人女性の置かれた微妙な立場」「たった一つの嘘が巻き起こすその後の大衆行動にかかる抑圧の重大さ、そして、大衆が抑圧されることによって引き起こされる望ましからざる世論の偏り」

それぞれについて、昨今の日本や海外の動きなども絡め、紹介していきたい。今回は「白人女性の~」。あとは後編にて。

白人女性の置かれた微妙な立場

ご存知の通り米国は多民族からなる国家。過去あった奴隷制も相俟って差別・反差別は大きな社会問題の一つ。20世紀も最終盤、そして現在(21世紀)ともなると、基本的には反差別こそ支持されるべき(少なくとも理念上)で、差別主義を大っぴらには語れない(最近は怪しくなってきたけれど)。

そのような反差別当り前な状況(物語の時代)では白人女性が置かれる立場というのは思いの外微妙。何故なら、非積極的な態度でさえ、レイシストとされてしまう恐れがあるから。女性?フェミニスト?弱者の味方?じゃあ当然反レイシズムでしょ?何で黙ってんの??みたいな暗黙のプレッシャー。おまけに白いとくればね。。。

著者も卒論で差別の歴史を取り上げており、当然反レイシズムなのだけれど、じゃあ積極的にデモなんかに参加したいか?というとそういう行動には実は消極的。そしてその態度は貫いている。とはいえ世間はそうではない。親友の一人もかなり積極的。しかしその積極さが著者にはちょっと不自然に映っていた。あー。プレッシャーのせいだ。。。みたいな感じ。

自作自演事件では、当然の如く件の女教授は叩かれたわけだけど、そして、著者も積極擁護なんてするつもりはないのだけれど、彼女だってもしかしたら必要以上にプレッシャー(反レイシズムへの使命感)を感じていたのかもしれない、という可能性は否定していない。

これを読んで、どうでしょう?日本人とすると、あー、日本だけじゃないんじゃ?って感じませんか?世間からのプレッシャー。それがそこまでやる必要はないんじゃ?ってところまで勿論個人差はあるけれど一人一人を追いやり(駆り立て)、集団的行動となって現れてしまう。

そういう目で見ると、つい先日あった反トランプの超大規模デモ。それ以前ではパリのテロ後の数十万とも言われる一斉哀悼集結。SNS上のフランス国旗。ともかく行動で明示するという手法。一人一人が一度冷静に考えた上でのものといえるのだろうか?文脈は違うけれど、必要以上に増幅されたプレッシャーに駆り立てられていたんじゃないのか?

守れ!リベラルの理念!

行動で示すという手法自体がいけないとは思わないんだけれど、どうでしょう?このストーリーのように、自作自演が明るみになった後、デモに参加した人、スピーチに喝采した人。どんな気持ちになったでしょうね?もしも一人一人が冷静に判断した上で参加したというのなら、そりゃちょっとは梯子もろに外された感じで恥ずかしいし、騙されたって怒りも感じるだろうけれど、一切沈黙するってことはないんじゃないだろうか?しかし、事実、それは起こってしまった。

後編へつづきますのでよろしくお付き合いくださいませ。)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?