マーケットの喧騒

バザール

ムッとするような空気

人々を惹きつけるヴァイタリティ

商取引は結構面倒くさいはずなのに何故人々は集い日々取引に従事しようとするのだろう?

糊口の糧だから?

需要と供給?

交換

社会起業のこれからの重要性を考えるに、交換の底に潜むエネルギーの動態人々の価値に対する感覚などを解き明かすことはキーであるように思われる。

何故人々は交換するのか?

交換可能にしておくのは一つの生きる知恵?

理屈では、多くの人々が労働を提供してその対価を得る (マルクスは「労働の賃貸し」と呼ぶらしい)。でも、日々生活する中で、例えばサラリーマンが毎日出がけに「さ。今日も労働を提供して晩飯代に交換するか。」なんて考えないのでは?つまり、日々お仕事してお給料もらって生活を成り立たせている、という現象を解釈してみるなら、、、という一つの説得的な説明であるように思える。

交換可能にしておくもの(質的vs.量的価値感覚)

労働、各種能力・資格

財産、お金、動産・不動産

情報、知識

趣味

思想、政治思想、道徳観、信仰

感情

何が交換可能になるのか?は基本的には前もって分からない。

だから、交換可能になっているものを観察するとパワーバランスなんかも透けて見えるのでは?

「交換可能になる瞬間」「交換可能になった後の状態」の違い

ルーチン化された作業

「オートメーション化された交換」はもはや交換というよりも・・・何???収奪ー被収奪関係?

社会分析で明らかにされる仕組みというのは基本的に交換可能物の候補の提供?(可視化されるから)

とあるものが交換可能になるプロセスとは?

衣食住に関わる物品vs.ソフト

意志の在、不在

モノの交換というのは動物の社会的行動としては例外的に洗練化されたもの??

人間以外の動物は個体間で情報交換は行っている?多分。。

人間の場合、生存に不可欠なエネルギーに変換可能になるかもしれない情報よりも、、、モノ交換するな。。。他の動物の場合は情報??

交換物の歴史的変遷としては、れっきとしたカタチをもって、有用性に関する認識も割と共通したものが異なる個人間でシェアされやすいもの⇒より抽象的なモノに移り変わっている気がする。

お金は?情報だけどほぼモノ(媒介物なんだけども”媒介”のニュアンスすら弱まっている)。


万人が商人にはなれない?

でも、商業や交易の発展過程をざっと見るに、「交換」は”上から”(商人・資本家+統治者たちのニーズ主導)でがっちりと固められてきて、その結果、庶民はそれに従わされて生きている、、、ように見える。つまり「交換している」という感覚はあまりないものと思われる。。。

しかし。

物語りが昔々からあったり、そもそも言葉が使われるようになったり、、、という行為・営みには、必ず「交換可能性」(おそらく経験、記憶や意味といったものの)が含まれる。なぜなら、交換可能な何かがなければ、語ったり、聞いたり、という行為自体に何の意味もなくなってしまうから。

つまり、経済学や金融理論が述べるような意味での、等価交換ではなく、モノなどに意味や記憶・経験などを託すような感じで可視化されたものに、とある価値が”読み込まれる”、、、そして、あたかも物語りに含まれる諸要素の内の何かがより価値あるものとされ(差別化)、必要に応じて計量され、、、という過程を経て”上からの交換”(等価交換のシステム)と接続されている感じ。

やっぱり交換を巡っても、よりパワーを持つ者たちの役割は大きい。

交換を巡るパワーとは、価値の等価化?交換可能化?にまつわるパワー?

等価交換を可能にする中で、本来等価化できないもの同士を等価としていないか?

自然と人為介入の境界が中々明確にならない以上、やはり自然現象、サインの生成過程、人々の意味読み込み(解釈など)をストーリーを追う形で検証していく必要があるのではないか?(単に、とある行為者(企業などを含む)と環境(自然など)との関係で、前者を価値の収奪者、後者を被収奪者、として分析するだけでは不十分なのでは???)

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