相互合意

商取引は相互合意に基づくもので、損もあれば得もある。

これ。安易に「法的効力は相互合意によって発効する」とか言って納得しておれるほど単純なお話ではない。

売り買いというのはどこででも行われている。

多分相当昔から。

で。昨今の売り買いなんだけど、「売り」を「自分が作ったものを売る」という形で経験する人って、「自分で作る」の解釈を相当広げたとしても、かなり少ないんじゃあないだろうか?

ということは、「売り買いは相互合意で、損もあれば得もある」と言うけれど、専ら「買い」しかも転売をほぼ前提としない「買い」。これって損とか得とかさえよく分からなくさせられているのではないか?勿論いくらでも「安くて良いもの買った♪」ってお得感を経験することはあるし、災害時の懐中電灯みたいに「買っててよかった」という感じの得を感じることもある。でも、そういうお得感(或は逆の「損した!」って感覚)って「売り買いの相互合意」によって生じたものといえるのか???

専ら転売、再転売を前提としない買いの立場にいる、という時点で、もはや「相互の合意」を形成できる立場にはいないのでは??

理屈では、農家さんが野菜作って、仲買さんと、「売り買いの相互合意」を成立させて、仲買さんと販売者さんがまた「売り買いの相互合意」をして、それで販売者さんからそうした相互合意に沿って設定された価格で買うわけだから、それだって「相互合意だ」と言われればそうなんだろう。

でも、”商取引”とは言えないよね。。一般の消費者がスーパーでもの買うのって。。「”取引”です」って言われればそりゃ嘘ではないけど。。。日常生活に必要な日々のお買い物って、、、やっぱり取引とは違う。つまり相互合意とかが前提にはなってない。どちらかというと、”(相互に)合意したってことでしょ?じゃなきゃ買わなきゃええんやん!?(あ゛ーーーん)”みたいな脅しのニオイもちらほら。。。

商取引と言えるような売り買いにおける相互合意って、、、結構なもん詰まっていると思うんですよ。信頼関係とか懐具合をお互いに何となく知っているとか。前回マケてもーた(もらった)から今回は、、、みたいな関係とか。

現代の商取引というか、商業活動。そこではそういった人間同士の肚の探り合いみたいなのはかなりオブラートに包まれているように感じる。もしくはごくごく限られた場面で一部の人々の間でしか行われていないという感じ。

よく効率化追求といわれる現代の新自由主義的資本主義的ビジネス運営。効率化とはいうけれど、何が効率的になっているのか??私の印象は、面倒な交渉。商取引で相互合意を得るような。これがただスピードが速くなっているだけの気がする。当然消費者の方も暗にそちらの方がいいと選択している。でもこちらの場合はどっちかというと日々のニーズから。「いつでもコンビニ♪」の方が便利なんだもん。その結果、人々は「ホンマ必要なんでまかりまへんか~?」みたいな自己のニーズさえ分からないし、それをもって交渉するなんてこともほとんどなくなってしまった。つまり。。。オートメーションなんです。交渉というか、そもそも交渉をしなければならなくなるような自己のニーズの自覚とか検討の

楽だけれど細かいニーズとか蓄えの多寡だとかはあまり考えない。考えないから先々のこと考えて必要以上を求めてても分からない

昔々の商取引ってもっと生きていくために切実なニーズに基づいていたんだろうと思う。

そこで語られていた相互合意の意味。損もあれば得もあるよ、という教訓。それってそのまま現代には通用しないと思うのよ。

それを強引に「法的効力は~」とか現代のマネジメント語で納得しようとするのはなんか変だ。というか。。。そういう態度が益々グローバル資本主義と言われる格差拡大装置を強化していくんじゃないんだろうか?

相互合意は大事よ。勿論。

でもそれってオートメーションは理論的に無理で、「ほ~ら。効率的でしょ?」みたいな説明って大体において持てる者に都合のいい解釈なんだと思っている。

「効率化」とかのパワーを行使してくるような大金持ちとかって、結局お金さえ増えればいいんで、そういう人とコネある人は、そっちの片棒担ぐんじゃなくて、「こうしといた方が儲かりまっせ~」って言って儲かるかどうかは分からない社会起業とかにカネ出させて、損もあれば得もある、ってことで相互合意して欲しい。「法的効力は~」とか言えるような賢い層ならそれぐらいはできるんじゃないのか?


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