ズルイって感覚

まあ嫉妬かな。。。

嫉妬心や平均化の完成形
現実になにかを獲得する方向へ向かうことが、およそない。

平等概念というのがフラットなんだね。

本当は科学の世界でも純粋な等式関係というのは存在しないんだけれども、社会科学の世界では尚更。

何かと何かがイコールで結ばれるというのがもはや夢ではなくて現実問題として目指されるべき、と信じられている。

「信じて」まではいなくても、二番目の引用に登場する「青年K君」が例示している通り、「ズルイ」っていう感覚にほぼ疑問を抱かない程度には根付いている。

誰かと誰かとを比べて、明らかに一方が「ズルイ」と感じる。

何でズルイって感じるんだろ?

自分の基準や標準に照らして、「より楽をしている」とか「お金を浪費している」とかいう判断を下している。

勿論厳密に計測したり計算したりはしていないのだけれど、前提として何かと何かとを比べることに何の疑問も抱いていない。そもそもAとBとは比較できるものなのか???

「ジジイ」と「青年K君」とは年齢が違う。

「ジジイの元気さ」と「青年K君の元気さ」も違う。

「ジジイのワンカップやパチンコ」と「青年K君の詐欺」の「道義的悪さ」も違う。

そもそもの前提が違うもの同士を比較して、どちらかが正当でどちらかがズルイと言う。そしてそれについて何もおかしいことと感じない。

比較することは避けられないことなんだけど、どうせ比べてしまうなら、「これぐらいなら自分もやれる」ぐらいのことを探ればいい。

夢の等式を思い描いて、そこからはみ出すものを「ズルイ」と呼んだところで、一体何が変わるというのだろうか?

夢の等式関係なんだけれど、結局夢を思い描いているはずの本人は、「平等ってなんだ?」なんて全く考えない。ただなんとなく納得していたいだけ。

「青年K君」が圧倒的不利な状況で生きさせられていることは厳然たる事実。だから、頑張れって言ったり、圧倒的不利な状況を指して「かわいそう」って言ったって何も変わらない。

同じようにかなり不利な状況で生きさせられている者を見つけて、そいつらを「よりズルイ」と呼ぶことで、自分の行動の動機づけや正当性の根拠とする。

選択肢の限られた状況でどう生きるか?を考えればそれも仕方のないことなのだろう。

でも、そういう不利な状況で生きていない者には、もっとやれることがある。

「ズルイ」って感覚に潜む共通点を探る。

そう。私たちにとって自分も他人も結局比較可能なモノなんだ。

簡単に比較できるから「ズルイ」って思えるし、そうした感覚がそれほどおかしなこととは感じない。

「そうじゃない」と抵抗したい感覚。これも真実。

大事なのは、その抵抗感にも限界があると知ること

真実たる抵抗感。人はモノじゃないっていう信念。

これってあくまでも「君たちって所詮人をモノ扱いしてるよね」って言われるからそう感じるだけ。

熟練度の違いはあれ、抽象概念を操作可能である以上、一旦は何でもモノ扱いしているということ。

それは人間である以上止めろと言われても無理だし、実際止めなきゃなんないもんでもない。私たちが現在生きているような生活環境も、ありとあらゆるものを一旦自分の外に置いて分析してみることで可能になっているのだから。

絶対無敵で普遍的な正義なんてない。

だからといって結局道義的な正しさなんてどうだっていいってことではない。

道義的な正しさというものは、行動してみて、誰かさんからの反応があって初めて評価できるもの。

そうした評価において最も高い得点が与えられるべきなのは、その誰かさんがより率直に反応できた時。

つまり、評価はほぼ不可能だということ。

だって率直かどうか?なんて本人以外には分からないもの。

ここから導き出されることは、

(1)お互いに率直に行動・反応するってどういう感じだろうか?ということに注意を向けるクセをつけ、

(2)隠しておいておいた方がいい真実を隠すような場合も含め、相手方に自分の思いがうまく伝わる方策を考え、そして

(3)反応が返ってきたら、ともかくまずは反応の主も、自分と似たような悩み。自分の率直な気持ちって何だ?とか、率直な気持ちが相手方にうまく伝わるようにするにはどうすべきか?といった思いが存在するものとして考える。言葉の一つ一つを取り上げては「間違っている」だの「ズルい」だのは、まず考えてしまうにしても、いつまでもそこに留まらないこと。

個々がそのように努めるということだけが唯一道義的に正しいといえる振る舞いをする可能性を残すということ。

なのでそもそも道義的な正しさなんて主張したりしようと思わないことだ。そうすること自体がそもそも道義的な正しさから離れてしまう。

肝心なのはあくまでも自分のことを考えに考えて、その結果ついつい他人のことも似たような感じで考えてしまうようになること。

抽象概念が使えるんだし。。。そんなに難しいことでもないでしょ?比べるなら「似たようなもの」ととらえればいい。「似ている」からって同じではないんだし。みんな似たようなもんなんだから自分が特段出る幕もない、ってわけでもない。

個性なんてやってるうちに自然と形作られるもの。

他人や社会に対する貢献だってそう。

何が役に立つか?なんてそうそうやる前から分かんない。

どーにも無駄で役立たずなものが視界に入ったとしたって、それが何なんだろう?だから自分も役立たずでいいのか?役立たずのまんまでお金もらえる方がいいんだろうか??

まあ「ズルイ」なんて言う人がいたなら、そもそもどうしたらズルくないのか?確認してみればいいんじゃないか??と思う。

「ジジイ」みたいな人は即刻死んでしまえばいいのだろうか?

そうしたら「ズルイ」人っていなくなるよね。

で?

そうなったとして、あなたはそのあとどうするの???

また別の「ズルイ」人でも見つけますか??

見つけようとすればいくらでも見つかると思うよ。

自分は他人を見て「ズルイ」とか思わないって人々だって、自他をいろんな面で比較していないか?考えてみるといい。

絶対何も比較してない人なんていないから。

「ズルイ」なんて言う人と、単に比較しているだけの人と、そんなには違わない。

どちらかというと、「単に色々調べているだけですよ」って人々の方が「ズルイ」よね。私から言わせれば。

何でか?って???

だってたまたま「ズルイ」なんて醜いこと言わないで済むような境遇にいるだけなんだもの。

比較して、自分の方がまあまあ良い方にいると思えるから「ズルイ」なんて言わないんでしょ??

単にそれだけのこと。

なのに「まあ自分の方が醜くはないな」なんて満足しているんだとしたら。。。

「ズルイ」よ。

そうやって自分の「ズルさ」に頬っカムリしているってことが、実際のところ自分だけ「ズルイ」とか醜いこと言わないで済む状態を維持している。勿論多くの人々は自分自身の醜い部分にだって気づいてはいるし、完全無欠な善人だなんて思っている人の方が少ないだろう。でもね。そんなもん気づいているだけじゃあダメなんだよ。善人の方に近い状態でいられるってこと。もっと正当に評価しなきゃ。

ほぼ当たり前のように享受している利益。これって当たり前にしていては、まず他者へわずかばかりでも譲ってあげたい、なんて思わない。だって気づいてないんだもの。ほぼ。利益が利益だなんて。気付いてないのに分け与えるなんてできるわけないじゃん。

人間って別に不親切なわけじゃないのよ。どちらかというとめっちゃ親切よ。

気づきさえすれば。自他の利益不利益の差。

勿論気づいていたってもれなくなんでもわずかばかりでも分け与えるなんてできない。

でもね。だからこそそうなるチャンスは増やさなきゃ。

不遇に見える誰かを善人に仕立て上げたいって気持ちも分からないではない。

でも、そもそも善人悪人の区分なんてできないのよ。特定の個人が特定の個人に対して。

んじゃあ。ってことでみんな易々とグループ分けして、グループ名で呼んで、別に特定の誰かを名指しはしていないって態度をとるんだけれど、そういうのって却って無責任だと思うのよね。

「青年K君」と「ジジイ」や「お母さん」の逸話がインパクト強いのは、みんな実在の人物だから。

そんな人々を無理矢理”こんな感じ?”って抽象概念でとらえようとしたって、そりゃ無理ってもんでしょ?

実在の人物たちを何とかしてあげたいって思うなら、自分との共通項を探さなきゃ。自分だけ置いといて、分析とかルポとかやっているんじゃあ、まさに”モノ扱い”だわね。。。

分析とかルポとかやらせてもらえる境遇を正当に評価するなら、やってる自分と対象との関係性は常に考えなければならない。

いろんな事例も引いて、客観性を確認することも大切。逆に自分の「何とかしたい」って気持ちを乗っけるのも大切。いずれのアプローチを採るにせよ、他人様の生活を対象とする以上、一旦は”モノ”として扱わせてもらうってことは自覚した方がいい。分析やルポだって、対象物の世界に関わりを持つってことに変わりはないんだから。。。

「書き方のマナー」はさておき、しかし、考えた方がいいと思うのは、結局こういうルポって、貧困者をなんとかする、っていうより、読み手をなんとかするって意味合いの方が強いってこと。そもそも記事として取り上げてくれるのか?取り上げられるってことは読む人が割と沢山いるということ。そうした興味が引かれそうな層って、、、諸般の事情により記事に出てくる人たちほどは貧困でない可能性が高い(極貧者とかネットアクセスが当たり前でない人が『東洋経済』なんて読まないし。。。)。

ということは、もしも記事に出てくるような境遇の人(の考え方?)を何とかしたい、と思ったら、書く人は自身を「対象の代弁者」というよりも、「読むだろう人々の代表」と捉えた方がより効果的とも言える。「ズルイ」って言う「青年K君」が気になったこと。それって案外多くの人の気にもなるんじゃ??だとすると具体的にどういうところが気になるんだろうか?

「青年K君」が結構頭良かったり、人柄が素朴で率直であったり、、、とかいうのは、案外想定内なんじゃないか?と思えるはず。だって割かしありふれたパターンでしょ??そういうの(悪事を働いている人が実はそれほど悪人ではなかった、とかいうの)。

ということは、そんなありふれたパターンに出会いたいから「生活保護受給者を『ズルイ』って言う貧困の若者」が気になるわけではないだろう。書く人も読むであろう人々も。

お互い苦境を知るはずの者同士が何らかの事情により他者を「ズルイ」という。そこにそこはかとなく漂う”潰し合い”の終末感。。。人柄が良いなら尚更。。。

伝えた方がいいのは、「あなたは現実に今どう生きていますか?」ということ。「こういう境遇になったら、こういう人々に出会ったとしたらどうしますか?」という仮定の話よりも。仮定の話の想像って、イマイチ距離感が縮まらない。

「自分らはまだマシ」みたいな感覚では、そのたまたまマシな幸運に感謝の念なんて湧かない。むしろ「青年K君も頭良さそうだけど、おれっちも同じぐらいか、も少しマシに乗り切れると思うよ。」って感じで、これまたたまたま授かっている天賦の才能同士の競争の話の域を出られなくしてしまう。

たまたま授かっているだけのものをあたかも自分の強みであるとか努力して得たものととらえ、それをもって他者との比較をする、ってのは前提となる諸条件の厳然たる違い(生い立ち、家庭環境などなど)の前では、ほとんど有益な意味を持たない。競争だの弱肉強食だの言うけど、はなっから不利な状況の人が競争したいなんて思うか??

人間なんて大概いい加減なもんで、勝てそうだから勝負するし、負けたって別に死なないような人が「や、やられたー」とかいって喜んでいるだけ。いや。そんなことはない。死んでないけど、別に恵まれているわけでもないし、、、仕方なく生き残っているだけ。。って言う人も沢山いることだろう。

でだ。。。

考えてみて欲しいのは、どんな境遇・過程を経てきたとしても、現に自分らはどーのこーの言うことができる。つまり「生きている」ってこと。

現に生きているということについて、奴は楽していて自分はしんどい、、とかは言えないのよ。みんなそれなりに「仕方なく」なんだから。

弱者救済がしばしばウソっぽく感じられるのは、救済できる人、救済しよう!と声をかける人の側に、その辺の自覚がないから。

単に自分たちの道義的正しさだけが追求されているように見えてしまう。

何で弱者救済を叫び続けなければならないような状況なのか??

分け与えないからでしょ?持ってる人が。

で。それは中々自分らが持っている方だとは感じられないからなんよ。

ハッキリ言って、「青年K君」のような生い立ちを経てきた人々に、「考え方ひとつ変えれば。。。」なんて絶対言えないから。

そんななまっちょろいもんじゃないんよ。社会格差って。

弱者救済したいなら、絶対持ってる人々に持ってるってことを気づかせるのが先。

一億総出で「みな平民」とか逃げ込んじゃってるから世の中変わらない。

平等とは権利の平等だとか機会の平等だとか言うけど、どっちにしたって世の中に平等なんてないから。

基準を揃えたい気持ちは分かるけれども、そりゃあくまでも個々人の心の平静であるとかまあ落ち着いて世の中の様子を見られるようにするためのツールであって、他人には押し付けられない。

え?別に押し付けてない??

残念でした。

私たちは個人個人それぞれ基準を作っては改変している。

そうしているということ自体が他者に枠を嵌めることになる。何故なら、個々人の基準って別に真空無風状態の孤立状態で一人で決めているわけではないから。あなたが内心何かの基準を携えて行動することで、他人は社会や歴史的流れを読む。

いやいや。押しつけなんかじゃなくて常に合意形成に努めてますがな。って?

はいはい。それはそれで尊いです。続けてください。

でも合意形成って偶然頼みだから。

勝手に相手が合意してくれるのだって偶然だし、自分が示す合意の条件つったってたまたまいけそうって思えるから出せる。そしてそんな合意が成り立つのは双方が各々いろんなこと我慢するから。

我慢するってことは、不均衡な力関係に甘んじる部分が必ずある、ということ。

不均衡な力関係に甘んじるというのは、別に弱い方だけの問題ではない。

だって理想的には「押し付けでない」方が「良い」んでしょ??

だとしても、「押し付けちゃう」わけだ。必ず。どっちかが。

人生ってしんどいかもしれないけど、私にとっては”面倒が多い”の方が感覚的には近い。だって考えたって考えたって決着つかないし、いろんなケースに出くわすし。。。何よりも動揺するからね。。。ひっきりなしに。。。

まあでも生きているってのは事実だし、、、。ここまで色々与えてもらったわけだし、、、。与えてくれた人々の本心なんて分かんないけども。せめて恩返しになるようには過ごしたいなあとは思うわけです。

”潰し合い”の終末(末世)状態は避けたいよね。。。そもそも親切な人間同士なんだもの。。。

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