屁理屈にも正しい論理。でもその前に大事なのは全体の感じ(屁はダメ)。

『一神教の誕生』(加藤隆)を読んでいる。

現代文明がどうしてこのようになったのかを知りたくて。

まだユダヤ教のところを読んでいるだけなんだけれど、何かがポソッと抜け落ちている感覚がまとわりついてきて仕方ない。

多数いる信徒達の存在というか行動原理というか日々一体何を感じ考えて生きていたのだろう?というところを私としては想像している。本書ではユダヤ教徒とはいえ全員がおしなべて同じ理解で神(ヤーヴェ)を信じているのではないと言及されていた。その辺りのこと。

神学というのは中々厄介だ。けれどもまずは「神」って何?というところを押さえるというか、いろいろと考えを巡らせたとしても折々そこへ戻って来るようにしないと、折角考えたこともほぼ無意味に帰してしまうと感じる。

21世紀の現在には何々学というものが非常に沢山ある。純粋理系の科学に分類されるようなものは違うんじゃないか?と思わなくもないが、学問として著されているものはおしなべて物語の一つなんじゃないか?と思い始めている。

理屈の整合性に腐心するあまり本質的なこと(例:「神」って何?)から却って遠ざかってしまったりという皮肉も人間的ストーリーととらえればさもありなんと思える。

皮肉や想定外の展開というのはストーリーの面白さの一つだけれど、学問なるものをストーリーとして捉えた場合のストーリーの強みというか人間的なるものの魅力は”巻き込んでくる鏡”のような力だと私は思う。

鏡というものは基本的には姿見のような感じで自らの姿を見せてくれるけれど、ストーリーの鏡的な力というのは読んでも(聞いても)書いても(語っても)そちらの世界に引き込んでくる。ただ登場人物たちのことを想像させるだけでなく、冒険モノならその冒険を自分も経ているような、いわゆる疑似体験。それによって感じられる全体の印象。善悪アリ。歪んでて美しくないと感じられることもあれば、登場人物たちや彼女・彼らが活動している環境諸条件たちが織り成すハーモニーが絶妙に感じられたり。

学問というものは人間の営みの中でも尊いものの一つであることは間違いない。21世紀の現代でもあまり否定する人はいないと思う。尊いついでにここはもっともっと巻き込まれる感覚を望むらくは楽しむか、それは難しいとしてもあくまでも人間たる自分達の営んでいることなんだということは折々思い出すようにした方がハッピーになれる人が増大するんじゃないだろうか。

神さまなるものと人間との関係というややこしい課題の追究でなくとも、21世紀の学問は高度に専門化していて誰もに門戸が開かれているようには感じられない。一念発起足を踏み入れたとしても先行研究やらしきたりやらで中々スイスイとは進めない。研究対象は多分魅力的であることが多い(わざわざその道に踏み込むわけだから)。他方イマイチな過去からの蓄積。けれども後者だって自分と同じ人間が関わった結果と見る。ただ自分と対照させるだけでなく、その道の全体を著すストーリーの中で、自他ともに渾然と交わり合いながらそいつを紡いでいる。実際に研究に携わっている人でなくとも、そういう風に考えれば学問ってもっと取っ付きやすくなるような気がしている。

そして何よりも、個々の理屈・論理のつながりがいかに正確なものであろうとも、全体がどうなっているのか?に頬っかむりしていれば、それらはただの屁理屈に過ぎなくなる。正確さを声を大にして主張したい時も、皆の幸せを祈って、心からの声を出すよう心掛けたいものだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?