まだまだ相当若い

なんとなくだけど終末感とまではいかないまでも人間の文明はこれ以上目覚ましく発展はしないだろうという憶測が支配的な気がする。閉塞感というよりもある程度齢をとって人生下り坂となるように人間の文明も下りに差し掛かっている或いは既に下り始めている。そういうイメージを持っている人が多いのではないだろうか。

人類の歴史も長いといえば長いからねー。石器時代からとはいわずとも四大文明(チグリスユーフラテス、エジプト、インダス、黄河)とかギリシアとかローマとか。
これに対していやいや地球ができてからの時間と比べると人類の歴史なんて全然短いということもしばしば言われるのだけれど。
私がまだまだ若いと思うのはそういう時間的な長短に基づいてのことではない。

質的な問題。
まだまだ未発達という印象があるから。

ものすごく大雑把に言うと人間全部を面倒看ることができていない。
勿論人間全部について詳細に正確に知り切ることはできない。
けれどもちょっと昔とは違ってだいたい70億人ぐらいがおることはかなり多くの人が知るようになっているしむちゃくちゃ粗いながらもどんな人がどこでどういう風に生きているのかということまでも随分と知られるようになってきている。
そういう大して努力せずとも知ることができるようになった情報の質の変化を鑑みると「そんなん知るかいな」というのはもう言っていられないというのが私の意見。
けれども「人間全部??面倒看る??バカ言ってらあ」というように思う人の方がまだまだ多いんじゃないだろうか。

「人間全部」はともかく「面倒看る」って何よ?というのをまずは明らかにした方がいいだろう。

なるべくよく知りなさい

なんてことは言うわけがない。
無理はイカン。

日々生きていく中で家族や同僚、ご近所さんなどなど直接干渉し合う人間は限られているけれど、まずはそういう直接付き合いのある人間とのあれこれだけでも面倒看るのは楽じゃない。ちょっと知的だか経済的だかに余裕があったとしたって住んでいる地域とか勤めている会社・団体やらそれらが属する業界全体のことを思い浮かべられれば中々大したもんだ。
ただ今の未成熟な文化・文明だと最初の段階の直接に触れ合う人間ですら人間として思い浮かべることができているのかとてもアヤしい。

面倒を看るというのはただ生きている人間として思い浮かべる。

それだけのことだ。

「生きている人間として」というのもよく分からないかもしれない。
例えばお母さん。そりゃお母さんなのだろうけれどそれがその人の全てなわけがない。先生、課長、部長、コンビニの店員さん、etc.肩書きがあればそれに沿って「あるべき(でない)」姿なども云々される。そうなるとまあ都合のいい暇つぶしができる。ただの暇つぶしで済めばいいけれど肩書きやら名前やらそれに紐付けられる様々なクォリティについて喋っているうちに往々にしてそれらは単なる一側面でしかないということを忘れがちだ。あたかもそれが人間の世界そのものであるかのような錯覚で生きて死んでいってしまう。錯覚に気付くこともなく。

こういう状態はとっても幼稚な子どものお遊びだ。
本物の子どもたちが夢中で遊んでいる方がよっぽど深みも奥行きもある。

ただの幼稚な暇つぶしがそうと気付かれないのには理由がある。
仕事のせいだ。

現代で意味のあるとされる仕事はとりあえずお金になるもの。
いやいやそれだけが仕事じゃないと言って各家庭で不可欠な諸作業が取り上げられたりとあるコミュニティを長年支え続けているボランティア的な諸活動などの価値が見直されたりもしているけれど、これらも所詮仕事だ。

そもそもの話をすると、私たちが生まれてから死ぬまでに行う様々な活動に価値や意味を付けたがるというところが大きな間違いなのだ。

今ではお金が媒介になって私たち人間が生きていくのに必要不可欠な様々なモノやサービスが素晴らしいスピードでかなりの広範囲に行き渡るようになっている。
こういう出来上がった仕組みを見ると私たちはどうもあたかも計画的に作り上げたものとして見てしまいがちなものらしい。だからこそその仕組みを維持させるために必要と思われる活動を価値が高いと考えるし、益々洗練させられるアイデアなら高額報酬を与えてもいいと思ってしまう。

違うの?

気持ちや理屈は分かるけど全部中途半端なのよね。

気持ちの方は適度に考えたような気分ね。何も考えてないより考えていると思えた方が断然楽なのよね。いくら「考えてないで。オレ。でも平気~。」なんて強がっててもね。やっぱりできることなら何か貢献しているような気になれた方がいい。

理屈の方は目標(例:必要不可欠なモノを効率的効果的に行き渡らせる)を立ててその実現のために必要な投入計画やら段取り、全体スケジュールなどを立てるってやつね。
どんなちっこい規模の計画であろうと計画者の方が全部が全部を把握し切って完全にコントロールすることなんてできない。
それができるというのならさ、怠けていて消費ばっかりする人たちがいるとして、どれぐらい消費しまくっても計画通りにシステムが動くか設計できると思うのよね。
でもそんなことできるわけないと言って自分が作る計画が不十分なんじゃなくてはみ出す人間たちがいけないってことになっちゃう。
これを中途半端とは感じないのが現代合理主義の現在地。

計画好きな人の行動も、だらだらただ生きているだけの人の行動も価値という面ではイコールなのよ。皆それなりの価値がある。ただそれだけ。
世の中に結構まともに作動する計画がゴマンとあってそれらが集合的に効果的効率的な仕組みとなって機能しているとしても結局一つ一つの計画自体は不完全。なら計画なんて一切やらない人の行動と何が違う?だってその人たちがいないと折角計画したものもどういう風に現実の人々に作用しているか?逆にそういう人たちからどういうフィードバックが返って来るか?確認もできないのよ。やっぱり人間全部が含まれる一番おっきな仕組みの中ではどれもこれもあった方がいいんじゃん?翻って、ゼッタイなきゃいけないってものは別にない。

限定的な範囲内とはいえそこの仕組みがうまく機能するように、そうすることでそこに属していると考えられる人たちの暮らしが楽になるようにと真面目に考えている人たちに対して「キサマらのやっていることに価値はない」なんてことを言っているんじゃない。価値や意味はある。他方怠けて何もしていない人たちに何の価値もないということはない。そういうシンプルな事実を言っている。

中々納得してもらいにくいのだろうけれど、私たち一人一人の価値というものは各々唯一無二で絶対的なものであって他者との比較というのはその時点で誤りだ。

便宜的に比較したりグループ分けしたりした方がいい場面がいくらもある。

そう言い張りたい人も沢山いることだろう。

けれどもいくら便宜的とはいえ間違いは間違い。

絶対やるなとは言わない。

ただ間違ったことをしているということは覚えておかなければならない。そして間違ったことを続けていればいずれ歪が出るのだということも。
こういう風にも言えるだろう。
私たちは間違わないことは決してない。
けれども永遠に間違い続けていていいということもないし、間違っていると薄々気付いているくせに「このぐらい。。。」なんて勝手に自分に赦しを与えて間違っていないことにするなんてのは言語道断だ。

中途半端なところで止める言い訳を言い始めてそれに気付くこともなく死ぬまで続けてしまう。。

幼いとしか言い表せない。

善と悪とは実は同じもので全部私たち一人一人の内側から湧き出てきている。どちらかだけを切り離したり、こっちは自分のものと言い張ったりすることは不可能。

近現代からと言わず、遥か昔々からの流れを見てみると、どうもこの辺のことが中々得心がいっていないようだ。

知性というものは仕訳ける能力のことではない。
分かるだけでは虚ろ過ぎてその能力を指して知性なんて呼べない。
人間が駆使できる駆使すべき知性なるものはもっともっと重厚なもの。

言葉は私たちを騙す。
気を付けなきゃいけない。
でも今のところは色々としんどいし重荷を減らすために敢えて騙す目的で使うという方に振れているように思える。
自分の言葉を自分で信じないんじゃあただの嘘つきでしかない。

努力、研鑽、節制云々。
言うならそのように生きようとすればいい。
そうしてみれば直に分かる。
常に一秒漏らさずにはできていないということが。
そこで何の言い訳が必要なのだろう?
不可能に決まっているんだから。
じゃあ、できないと分かっているならやらない方がいいのだろうか?
そんなんでは磨くどころか、、、磨かれる何ものも存在し得ない。
ただ生きて死んでいくだけ。
言葉なんて持たない生き物達の方が能力なりに生きて死んでいくだけよっぽど価値がある。
自分で自分の価値を貶めるようなことをしてそれに気付きもしないばかりか、艱難辛苦に耐える健気なヒーロー/ヒロインの美談に仕立て上げる。
空っぽ。

言葉を使って自分を騙してもいい。
いろんな経緯があってそうしたくなっちゃうんだから。

こういうところにこそもっともっと愛情を注いで欲しい。

ブラックホール並みの重力で注いでも注いでもキリがない。

でも底抜けのバケツから水が漏れ続けるのとは違う。

そこにアナタがある。

どんどんどんどん重くなっていく。

この重みがないと磨こうと思っても磨かれないのよ。何も。

現在あるように幼いまま生きて死んでいくのが人間の実力ってところなのかもしれない。
そうであったとしても、それでお終いってことはない。
まだまだまだまだ。
先はある。

私はそう思う。


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