自分をよく知るしかない

しばらく続いたうつ状態もおさまり本などが読めるようになってきた。
安くつくということでGutenbergなどで入手できる古い本(主に小説)ばかり読んでいたが、何年かぶりで博士課程時代に読んでいたNarrative theoryとか記号論とかも読む気力が出てきた。
そういうものを読みたくなる動機は一体何なのか?あらためて考えてみると、五年以上前とあまり変わっていない。私たち人間の日々の考え方、感じ方。それが現れ出るところの言葉の仕組みを知りたいということ。そういうことを知った先には道徳とか倫理とか社会の成り立ちとかいうものがあることはあるのだけれど、まずは最初の一歩のところを納得できないと先へは進めない。
私たち人間の日々の考え方、感じ方などについて知りたいと思うからには、現時点でそこにもやもやしたものを感じている。
トランプさんが出てきた選挙が2016年だから、その前後から見かけるようになったポストトゥルース(Post-truth)と称されるような現象が目立つようになってゆうに五年以上経つということか。
意図的に捏造された事実と反する情報が飛び交って、どうやらかなり多くの人間がそうすることにあまり罪の意識を感じなくなっているらしい。正当化できると信じる目的が何かあるからなのだろうけれど、要するに「利益を得るためなら手段を選ばず」という傾向がそこまで強くなっているということだ。

新聞というかネットニュースで扱われるような政治や経済の分野において嘘八百が臆面もなく垂れ流されるというのははるか以前から既にあったことで、そこまで大騒ぎすることでもない。
けれども日常の場面で普通に顔を合わせるような人間の言葉からもなんとも言えない空恐ろしい感じを受けるようになっている。「絶対本心から言ってないな」という言葉。嘘も方便という次元ではないし、ちょっとした流れで出さざるを得なかった出まかせというのも多々あろうけれど、そういう場合に伴ってくるはずの発言者本人の悔恨や悪びれる感じがない。言うなれば空気を吸い吐きするかのように虚言が繰り出されるのだ。かすかな罪の意識もない以上、きっともう論ずるまでもないほど当然の根拠らしきものがあるに違いない。普通に生きていくためには仕方がないとでもいうような。

嘘をつかなければ生きていけないという場面がないとは言わない。しかし、人は恒常的に呼吸するようにウソをつき続けられるものなのだろうか?私は大いに疑う。
ただ、現にそういう人間が増殖しかつ生き続けているということは、遠からず死に絶えてしまうだけのこと(一過性の現象)なのか、或いは、物質的な側面、社会制度的な側面が、「もう生きていけない」と言うほどには実はまだひっ迫していないだけなのかもしれない。
”だけなのかもしれない”と言ってしまったが、後者の方はそうも言っていられない。というか放っていては今は持ちこたえている物質面、社会面が支えきれなくなる可能性が高い。何と言っても社会を構成しているはずの人間の
健康(特に精神面の)悪化が危惧される。嘘をつき続けておればきっと精神が病んでしまう。病み切ってしまった人間が社会をいい方に回すことができるだろうか。虚言癖は修正されなければならない。けれども一体どこをどういじればいいのだろう?

ここ数年に始まったことではなく、二〜三十年ぐらいのオーダーで、若い世代が人間というものにあまり大きな期待を抱けなくなっている様子が観察されてきているらしい。二〜三十年というと、その頃若い世代だった人たちももう壮年(四十代以上)になっていることになるが、それでもまだまだバリバリ現役の世代だ。この社会を成す多くの人々が、ともかく自分達人間のやることなすことを誇れるようなものと思えないということらしい。

誇る必要なんてないんじゃないか?という声も聞こえてくるような気もするが、ちょっと考えてみて欲しい。どうせ大したことない集団(人間)の一員でしかないと思うなら、その集団に対する思い入れは勿論自己の振る舞いに責任感なんて生まれるだろうか。「いやいや自分だけは違う(大したことないことはない)」と思う人もいなくはないだろうが、実際そういう人が身近にいれば鼻につくだろうし、そこまで意志が強くて自身の実力に自信があるならわざわざ”自分以外”の評価を落とす(「大したことない」ことにする)こともないだろう。集団と個の関係というものが絡んでくると、感じ方考え方という個々人に帰されると思われるようなことでも、簡単に分けては考えられないものなのだ。

誇るまでは必要ないかもしれないということで謙遜という言葉が思い浮かぶ。謙遜は美徳の一つとされるけれど、過大な卑下(自己過小評価)になってしまうと行き過ぎだ。この境目に何があるのか?
「徳」というからには自己完結は不可能。つまり、他者との実生活における関係が意識されていなければならない。他方、自己評価の方は読んで字の如くであくまでも自分の胸にしまっておくことができる(他者からの目というものも当然自己評価の為に用いるが、あくまでも想像上で済ませられる)。微妙なようで決定的な違いだ。どうやらなんらかの事情により、自己内に閉じこもりがちな人間が増えているらしい。

虚言、虚言と言ってきているが、大それた大うそを吹きまくるわけではない。とにかく目立たないのが一番なのだ。出過ぎないし引っ込み過ぎない。Modestyを地で行けているとすっかり信じ込んでいる。何かを信じ込むなんて強い感情は美徳に反するので、当然の如く抑え込んでいる。と、これまたすっかり信じ込んでいるふしがある。私が感じる空恐ろしさはこの思い込み。自分では思い込んでしまっているとは微塵も感じていないというぐらいの100%ピュアな思い込みだ。

有史以来人間というもの、こうした自己内対話を続けてきているのだろうけれど、ここ最近、そうした地味でも案外面倒な作業について、「お互い分かったことにしておこうよ」とでも言いたいかのような偏りが感じられる。思いやりと言えなくもないけれど、まあ何にせよ実際に生身の他者と関わり合うことに面倒を感じているようだ。加えて、地味で面倒な自己内対話とはいうけれど、それにやや過大な評価を与えてしまっている。独りよがりとも言える。各自の自己内対話の結果、「まあお互い極力不干渉で行きましょうや」というところに落ち着いているんだろう。

「相互不干渉」なんて実現すれば最高だろう。でも、私たちって各々の自己内対話だけで本当に「干渉し合わないのが一番だ」と確信できるほどの結果を得られているのだろうか?
無駄に干渉し合わないというのはいいことだ。ただ、どういう基準で「無駄」だと判断できるんだろう?私たちは社会的な生き物だから没干渉は不可能だ。

個々人は須らく大事な存在だけれど、それは何かができるから大事なんではない(例えばより正確な自己評価とか、干渉が無駄であるかどうかの判断とか)。自分のであろうが他人のであろうがまずはその存在すること自体が意味あることだと思えなければ様々な「できること」の意味も十分に理解されない結果に終わる。自己内対話について言うなら、それを十分にこなしているかどうかを気にする前に、まずはそれに勤しめる状態、つまりこうして生きているという事実の方をこそありがたく思うべきなのだ。

「まあまあちゃんと生きてるんやからええやんなぁ。」
忌憚なくそう言い合えるならそれは何よりだ。
でもそういう感想って、自分はModestyで通せていると思い込んでいるような人間から生まれるものだろうか?どちらかというとちょっとがむしゃらにやり過ぎて目立ち過ぎたり、いろんな人に迷惑かけてしまうなど、やらかしちゃうぐらいの人間から出てくる言葉なんじゃないだろうか?
「やらかし」というぐらいだから賛美したり、無条件で推奨できるものではないけれど、どんなに注意したって失敗ってするものじゃない?
そうして考えてみるとやっぱり「そこそこを行っている」でも何でもコントロールできていると思い込むのは徳ではなくてただの思い上がりじゃあないだろうか?

自己研鑽を通じて様々なことをコントロールできるようになることは素晴らしいことだ。ただ、しっかり考え直した方がいいのは、そうなるようになるためにはまず生き続けていなければならないということ。私たち人間が生き続けるということは、具体的に他者と関わり合っていくということ。そうした中からやっとこ様々な能力と呼ばれるものが備わってくる。積み重ねが必要なのだ。

嘘だ虚言だと言ってきたけれど、人間の使っている言葉なんてとても事実を精密正確に記述し切れるような代物ではない。だからこれは事実に反するとか、それには本心が込められていないとか細々と評価・判断するなんて到底できるもんではない。
とある基準(客観的基準?)を満たしているから絶対に嘘はついていない。そんな主張も本人が何を考えているか次第で意味合いは全く違ってくるのだ。
悪いウソというのは広く社会に対していい結果を及ぼさないウソともいえるかもしれないけれど、そういうものが極力出てこないようにするには、自分自身が何を考え何を感じ、また、どう行動しているかをその周囲への影響まで含めてなるべく正確に知るようにした方がいい。けれども、それが出来るようになるためにも、まずは一つ、ここにこうしてあることを最大限評価しようとしてみること。そこから始めれば、自分自身を見る目、ひいては他者や周囲の環境を見る目も養われてきていることがじわじわと感じられるようになってくるのではないだろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?