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Open-endedは分かりやすい

~「伝えるための技法」シリーズ(?)~

以前のノート→https://note.mu/hamaokahlisboa/n/n347ebd91be3f

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Open-endedが分かりやすいか?というと実はそうでもないんだけど、「始まりが決まってない」との比較ではまあイメージできなくもない。

何事にも始まりと終わりはある。通常ね。

宇宙を例にとると、

始まりはビッグバンと言われている。けれど、その前は?

宇宙の終わりってどんなだかは分からないんだけど、終わりが分からなきゃ、別に「じゃあ永遠か?」とか聞かずとも、分かんないまんま放置しといてもそんなに困らない。私としては。

ところが、「10年後に終わる」と聞くと、やっぱり終わった後が気になる。まずは、「どう終わるんだ?」ってのが気になって、つまり、「俺生き残れんのか?」も一応確認しときたい。ことが”宇宙の終わり”みたいに壮大過ぎると、まあ諦めもつく。諦めたその後かな?宇宙が終わった後がどんなんだろ?って考えるのは。

終わりの方はこうして、現実からスタートできる(始まりがある)からかな?段階が踏める感じがする。

「終わりを決めない」ってのは、こんな感じで、実は仮に「この辺で終わるかもしれない」って示唆しておいてから、「現時点からスタートするなり好きに始点を決めて、そっから好きなだけ段階を踏んで考え続けてもOKってことにする」ってことかな???永遠の旅?時間で考えるとずうーーーーっと進み続けるイメージ。”始点”が「各個人」ってことになりやすい?かも。

対して始まりの始まりは?

何も無かった?

でも何故か、全く何もないところから突如何か(宇宙)が現れる、というのは不自然に感じてしまう。なんか材料になるようなもんがどっかにあったんじゃ?とか。

不自然っていうか、、、。「『無』。以上!」で話が終わっちゃう。。。 別に絶対それじゃ嫌だってことではないんだけれど、何か違うことも考えてみたくなっちゃう、って感じ?

何か似た感じのものが終わって、その残骸からまた新たに何かが形になり始めた?なんてシナリオも想像はできる。

でも、じゃあその残骸になっちゃったものの始まりは???

永遠に続く生成と消滅の連鎖???

ということは、「始まりを決めない」ってのは、「何かの(永遠でなくてもいいけど)繰り返しを想像させる」ってこと???

永遠繰り返しの場合でも、終わりの場合(「ずうーーーっと進む」)とちょっと違って、、回り続けるイメージ。円環?

「はい。あなたは今円環の中にいます。」という状態から色々と考えてみてください。

と言われて世の中の見え方は変わるだろうか?

終わり未知(Open-ended)のずうーーーっと進み続けるイメージ(←【個人主義?】)との比較で違いはあるか?

とある始まりと終わりで区切った場合(←【人治の世の中?現世、科学、政治、倫理?】)とはどう違うか?

円環のシナリオ(始まり未決)は【曼荼羅的?時空(自他)の壁を超越する倫理?】

始まりが決まるだけで自他の融合・宥和が途端に難しくなる???

融合・宥和が常に善であるわけではないかもしれないけれど(明確に責任関係を定義して問題に対処する方が賢明という場面はしょっちゅうある)、融合・宥和を前提に現実のいろんな課題に当たる方がよりチャレンジング。ありとあらゆるものが時空を超えてつながっていることを大前提としつつ(←円環なので)、実践的な調整は、Open-endedとか始点・終点で区切って適宜対応。融合・宥和の理想はまず実現不可能。実現不可能と知りつつも、ともかく”大前提”なので諦めずに(そもそも一代限りの事業ではないし、先達の遺志を継ぎ、後世の幸せを願って)目指す、というぐらいチャレンジング。


結局、一人一人がこの世で生きている時に「何を目指すか?」の違いになるのかなー???

例えば、生まれながらに異なる資質とか生育する環境の違いとかは「しゃーない」と放置するのか?「しゃーない」とはいえなるべくそれだけで致命的な違いが出ないようにと願うのか?(かなり微妙な違い。内心の問題。)

微妙とはいえ、現状、生まれながらにもたされるものの違いってもののシリアスさにほとんど想像力が及んでいないわけだから、せめて「これでも足りんか?」ってぐらい想像しようと努める気持ちぐらいは持てるよう働きかけたっていいんじゃないだろうか?「しゃーない」と言うかどうか?もまずはどう「しゃーないのか」が想像できる、または、もっともっと「しゃーない」について知りたいと思うようになってからかと。。。

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【始まりを決めない伝え方・読ませ(読み)方?】

(1)対話形式?

禅問答?

どんな発言・発話も、それに先立つ発言・発話(実際にあってもなくても)に喚起されたものと考え、また、後続の発言・発話を喚起するものと想定。さらにこのとき、地位の違い、技能差、その他力関係の上下(優劣)が存在し、かつ、交互に繰り返されるものと想定する?→下:「あなた(上)によると○○○○とのことなんだけど?」、上:「○○○○で内容的には誤りはないけれど、絶対的断言はわたしにも無理。」、下:「(上の発言・発話を踏まえ)自分自身で最終判断を下す。」

ここ(↑)で大事なのは、”真の真実”みたいなものは誰にも分からないんだけれど、その存在に誰もが憧れてしまうことは「どうしようもないこと」として認め、もし「これで正しいか?」と聞かれれば、「正しいも何も、そんなもんあるわけないっしょ。」とうっちゃるのではなく、(個人個人の能力などによって異なるにしても)可能な限り真摯に回答する。「真摯に回答」というのは、最終的には「でも絶対正しい(間違い)とはいえない」とその(合理的実証的)理由を添えて語ること。

(2)ストーリー形式?

プロットで操作?

前世・現世連環プロットとか?自分の子どもが未来からやってくる話とか?

そこまで極端でなければ、いろんな世代のキャラクターが混在しながら進むプロットとか?(例:ウィリアム・フォークナーさんの作品)

(3)擬人モデル?

(1)の対話形式とあんまり変わらないけど、誰が発するどんな言葉も結局確定的な要素は何もないのだから(真実を伝えようとしてウソをついちゃう、とか、騙そうとして図らずも真実を伝えてあげちゃう、とか、、)、そういうどうやったって捕縛しきれないナニモノか、に帰属させちゃう。ありとあらゆる発言・発話を。

ある程度合理的に組み立てなければ何も伝わりはしないんだけれども、”合理的”とか”組み立て”に必要以上の価値を置かない。もしくは、それらを根拠に「分かれ!」と主張することを防ぐ。

中途半端に「何もかもを投げやる」(現実に存在する誰か・何かのせいにする)のではなく、却って発言・発話に対する責任感が増すのではないか?「絶対正しい或は大切・必要と思うからこそ伝えるんだけれども、そういった意図や願いは、想定している対話者がより自由に想像力を駆使してくれてこそ伝わる」というような思い。


やっぱり「始まりを決めない」ってのはイメージ、操作ともにしづらいな。。。

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