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ゆっくり時間をとる(後編)

(前編)はこちら

2000年代初頭、米国西海岸のとあるカレッジで起きた人種差別/反差別を巡る、白人女性教授によるレイシスト事案でっち上げ事件。事件が起きる経緯やその後の世論の動向(右傾化)などは以外にも現在の米国いや先進諸国に見られる社会の分断にもつながっているように見える。

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たった一つの嘘が巻き起こすその後の大衆行動にかかる抑圧の重大さ、そして、大衆が抑圧されることによって引き起こされる望ましからざる世論の偏り

自作自演事件は、デモ等への参加者に、明らかにある種の忌避感を呼び起こしてしまった。もう忘れちゃいたい過去。なので誰も事件の背景まで含めたかたちで、反差別のための運動を批評的に語る(総括してみる)、なんてことはしなかった。そうすることが困難な反差別の理念実現への動きを強化するチャンスだったはずなのに。

なんで黙っちゃいけないのか?

反差別って全くいけないことではなくて、むしろ人間の差別意識ってのは根強いわけで、地道に根気強く取り組まれるべきこと。

黙ってしまって米国全土(自作自演事件は全米で報道された)で起きたことは、反差別主義者への批判、揶揄、嘲笑、、etc.。当然利用するのは差別主義者たち。

反差別を名乗るものの一人が道義的にいけないことをしたからといって、反差別が悪いわけではない。そんなことは多くの人が分かっているはず。それなのに、反差別の意見を忌憚なく主張できなくなってしまう。勿論自作自演教授に責任はある。けれども、彼女一人を責めたところで、それで反差別側に盛り返しが期待できるはずもない。間違っていない人々が語らなければ誰が語れるというのか?

では、先日の反トランプ大規模デモは、差別主義とも言われるトランプ政権にNoと明示しているので、問題ない。そう言えるだろうか?

このストーリー(California Burning)が教えてくれることは「みんなで極端に走らない」ということなのではないか?大規模デモは、多様な意見や異なる事情を踏まえ、できるだけ多数の人々の幸せを願って現れたものなのだろうか?

つながっているようでつながっていない。そんな印象が私の心をざわつかせる。

反差別などのいわゆる左派と呼ばれる人々が、9/11以降、”アメリカの正義”の名の下に、タカ派・国粋主義ともいえる差別主義者をも含む右寄りの意見の興隆にずっと危機感を抱いていて、それで先日の大規模デモのような行動に出たのだ、と言えるのだろうか?そのようにしっかりと根がつながっている運動の一環だというなら、何故そもそもトランプ大統領が生まれたのだろう?

つながってなんかいないんじゃないか?

全て日和見的。誰も地道に反差別の大事さを熟考し続けてなんかいない。だから目に見えない抑圧に準備して抗し切るなんてできるわけもない。ただ流されるのみ。何か一大事件が起こる度に「動くならここでしょ!今でしょ!」とは言える。最終防衛戦だ。

いやいや。

大事なのは”最終”なんて事態を招かないことでしょ?ひとたび世論が盛り上がってしまえばもはや一人一人にできることなんて限られてしまう。大事なのは平時にどのような準備ができているか?

現在喧しい反トランプの人々の大部分は、単に「トランプなんかにゃ負けるわけねー(何故なら奴は粗野なアホだから)」っていう明らかな侮蔑、翻って自らの優位性を、何かカタチにして示したい、という近視眼的な自己肯定目的に拘泥しているように見える。

トランプ氏は実際アホなのかもしれない。でも侮ってはいけないんじゃないか?どんな人間であろうと「侮る」ということは自分自身の足元について疎かにさせてしまう。丁寧な生き方を心がけておれば、「生きる」というありふれたことだけど、それに対する「侮り」はリスクを冒すことと感じられるはず。つまり、「侮る」ということは”平時の準備”なんてする気もないという態度。

大統領選挙で、リベラルの理念を掲げる”エスタブリッシュメント”と言われる社会の上級階層が、その欺瞞を暴露され、事実大きく地盤を揺すぶられたと分析されていた。グローバリズム。基本的人権。万人にチャンスのある公正な社会。それら大っぴらには否定できない理念と現実とのギャップに燻っていた不満が、トランプ氏という起爆剤を得て、既存の支配階層にNoを突き付けた形。

しかし、そうしたNoをポピュリズムと名付け、引き続き上からの視点で分析し続けるのはリベラル。一人一人が楽もあれば苦もある人生を生きるということに対する対等な視線は感じられない。「そりゃ貧困層なんだ。人生辛いでしょ?」みたいな感じ。辛いんだから溜飲下げるためにアホなリーダーにだって頼りたくもなるでしょ?っていう「困った人々」観が名付けた”ポピュリズム”。彼らが侮っているのはなにもトランプ氏だけではない。一人一人が(自分たち自身も含め)生きているというその事実。

理念の名前はリベラルでもなんでもいいんだけれど、問題なのは賢げに分析し続ける人々が、自分たちの分析手法に避けがたくインストールされている弱点、否、暴虐さに無自覚であること。そのために、ほぼ何の疑問もなく自分たちの方がまともでかつ優秀だと思い込んでいる。何故アホ(っぽい)トランプの言動に容易くなびくのか?ただのアホだから、と決めつけてしまっているようだ。アホに見える人々にだってそれぞれ事情があるというのに。。。

賢げで分析慣れした人々の分析というのは、原因ー結果の炙り出しが前提とされている。因果関係の説明を立てるべく、そのための変数探しに躍起になってしまう。それはもう癖になってしまっていて、社会問題を分析するということは、人々の暮らしを扱うことだという基本をすっかり忘れてしまっているようだ。人々の暮らしというのは変数ではない。必要上一部を取り出して変数化して計算する場合もあるだろう。それらしい名前を付けて、勝手なストーリーを作って、「客観的説明」と呼んでしまうこともあるだろう。でも、そうする際には道徳的な痛みを感じなければ。そんなセンチメンタルは現実社会にとってほとんど意味を持たない。果たしてそうだろうか?そのような考え方が、欺瞞と映ったのではないのか?ポピュリストとされる人々の眼には。

とりあえず自分たちが理解できればいい。望ましくはない状況だけれど、自分たちが納得できるような説明ができればいい。自分たちさえ納得できているなら、そのうち自動的に社会はよい方向に舵を切ってくれるとでもいうのだろうか?その「自分たち」というのは誰なのか?近しいお友達?ほぼフリーハンドで自分の言う事を理解してくれる人たち?これを悪い意味でのエリート主義と呼ばずして何と呼べるのだろう。詳しい説明なんてしてらんねーよ。説明なんて要らない。説明してもらって分からなければまたアホって言われるだけだから。必要なのは気持ち。

気持ちなんかじゃ社会は変わらない。そうだろうか?物的に現に余裕があるからこそそのようなことが言えるのでは?「自分も気持ちは抑えているんだから君たちもね。」そりゃ無理筋ですよ。物的資源の圧倒的格差以上に、あなた方は本当に基本的なことが分かっていない。気持ちなんていう人の内面で起きることは、あなたが捨てると決めるただそれだけのことで、全く無関係に思える他の全人類の気持ちも捨て(させ)ることになってしまう。内面で起こることなんて全部解釈の問題だから。「これはあくまでも自分自身だけのこと」なんて限定は効かないのです。あなたの解釈は全ての人に投影されてしまう。たとえ望んでいなくても。ことが穏便に済んでいるのは解釈を受け入れてくれる人々のお蔭。当然そこには明らかな権力格差も作用している。つまり、社会関係を不安定にさせる面従腹背。そこに蓄積しやすい鬱屈した人々のエネルギー。

現実を生きておれば折々自分の気持ちはコントロールされるけど、当然全員の気持ちにまで及ぶ影響なんて面倒は見れない。全ての人々の解釈が一致することもない。だから気持ちのコントロールは自分自身のお手柄や報酬利得の根拠なんかにゃならない。全く逆で、他者に許しを乞うべきことなのです。「ごめん。プレッシャーかけちゃうけど、今はどうしても必要だから。もししんどすぎたら言ってね。」ぐらいの配慮が本当は必要なこと。そもそも弱い立場の人間ほど気持ちを押さえつけられているのは明らか。(必ずしも卑屈になっているわけではないけれど、だからこそより複雑なコントロールを強いられているともいえる。でも自慢なんてしないでしょ?「すごいコントロール振りやろ?」なんて。)

多様性こそが大事とはしばしば言われる。でも、このストーリー(California Burning)が教えてくれるのは、大衆はどうしても分かりやすい潮流に乗せられてしまうということ。そしてそうなる過程は実に様々だということ。

しかし、そこに社会というものをあくまでも変数間の関係として説明しようとする圧力がかかったら?「(トランプは)大衆動員に利用可能なリソースは何でも利用しようとする」なんて言葉が跋扈し続ける。動員される大衆の特性は勝手に規定され、為政者達が扱うのは”リソース”だ。本当は、私たち一人一人が生きていく中で、流通しやすい意味とそうでないものが仕訳け可能になって”リソース”となり、特性だって、何と言われようが、それぞれの「できることならよく生きたい」という気持ちから出てきている。上記のような言葉の主は、一体自身を何者と理解しているのだろう?生身の人間を扱うという難題に直面して葛藤に苛まれているのだろうか?私にはそうは思えない。ただ自分たちが納得したい。それが先決。。。そのためには丸められるところ、ならいいけど、そうでなくたって無理矢理丸めちゃえ。

極端な潮流に流されやすい様子を見てただ”衆愚”と言っているなら、多様な社会なんて全く目指していないということだろう。人々のユニークな事情、ましてや気持ちなんか、説明して目に見えるようにしたいなどとは露も思っていないわけだから。

何よりも、人間の気持ちなんて不確かなものは信用できない、信用するなんて面倒を増やすだけ、と考えているような人間が、多様で豊かで平和な社会なんて作れるわけがない。ご立派な理念、それに沿うような分析を連打し続けることはできても。。。そういう欺瞞に満ちた人生を全うする。まあそれを選択できるぐらい人間は自由なんだけれどね。

エピローグ

さあ。では日本です。

安倍さんの支持率は未だに高く、秘密保護法、集団的自衛権を巡る憲法解釈及び関連法案のときに盛り上がったデモは鎮火。原発再稼働・輸出に武器輸出。テロ等対策法に五輪。何よりメディアは広く大衆のために情報を届けようなんて考えていない。

一体国は何を目指しているんだろうか?国民は何を目指せるというのか?このような状況で。

答えを急ぐ必要はない。

「一人一人が生きている社会」について考えてみる。それが”平時の準備”。そのために、このノート(前・後編)が少しでもお役に立てれば幸いです。

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